ヤン・レッツェル

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ヤン・レッツェル
生誕 1880年4月9日
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
ボヘミア王国 ナーホト
死没 (1925-12-26) 1925年12月26日(45歳没)
チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア プラハ
国籍  チェコ
出身校 プラハ美術専門学校
職業 建築家
建築物 広島県物産陳列館(原爆ドーム
Grand Hotel Evropa
パビリオン、温泉地ムシュネー
レッツェルとホラの会社の広告

ヤン・レッツェルJan Letzel, 1880年4月9日 - 1925年12月26日)は、明治末期から大正にかけて主に日本で活動したチェコ人建築家広島県物産陳列館(後の原爆ドーム)の設計者として有名。ヤン・レツルとも表記。

経歴

1880年(明治13年)にオーストリア・ハンガリー帝国(現チェコ共和国)のボヘミアの町ナーホトに生まれた。実家はホテルを経営していた。高等専門学校で建築を学び、1899年にパルドゥビツェの学校の土木課の助手の職を得る。

1901年には奨学金を得、プラハの美術専門学校(College of Applied Arts in Pragueチェコ語版)に入学しチェコの近代建築の重鎮の一人であるヤン・コチェラ教授チェコ語版に師事する。1902-3年にかけて、研修のためボヘミア、ダルマチアモンテネグロヘルツェゴヴィナを訪れた。彼はコチェラから石やコンクリートによるシンプルな近代建築の手法の影響を受けたほか、ユーゲント・シュティールアール・ヌーヴォーの影響も吸収した。

1904年に卒業し、Quido Belsky設計事務所でプラハのヴァーツラフ広場のGrand Hotel Evropaの外装、プラハの北西約40kmにある温泉地ムシュネー(en:Mšené-lázně)のHall of Msene Springsの設計に携わった。1905年にはエジプトカイロのPascha設計事務所に勤める。

日本における活動

1907年(明治40年)に横浜のゲオルグ・デ・ラランデの設計事務所で働くために来日する[1]

1908年(明治41年)、ゲオルグ・デ・ラランデ(Georg de Lalande, 1872 – 1914)のドイツへの帰国(結果的には一時帰国であった)に伴い、これまで勤務していた設計事務所、「G. DE LALANDE」から、ゲオルクの父親で、建築家のオイゲン・デ・ラランデ(Eugen de Lalande)が横浜に設立した新会社「E. de Lalande Co」にKarl Horaと共に移籍し、レッツェルは、東京支店マネージャーとして、当時の四谷区東信濃町29にあった洋館を借りて引っ越した。ここには、当時、東大教授で物理学者の北尾次郎(1854〜1907)が設計した、子息の北尾富烈が所有する洋館があり、ゲオルクが再来日後は、レッツェルに代って、ゲオルクが1914年8月に急死するまで居住した。この洋館は、2014年に、江戸東京たてもの園に、デ・ラランデ邸(三島邸)として、移築復元された。なお、レッツェルの出身地、ナホトと、デ・ラランデの故郷、ヒルシュベルクは、リーゼン山地を挟んで近接しており、二人は国籍こそ異なるものの、「お互いが懐かしい同郷人そのものであった」という。[2]

1910年には同胞の友人Karl Horaとともに独立し、会社を設立した。事務所を横浜と東京に置き、15件以上[3](約40とも[4])の建物の設計をした。この時期事業は順調に進み、1913年に共同設立者のKarl Horaが帰国した後は、単独で事業を始めた。同年開業の松島パークホテルの設計を担当し、その発注者であった宮城県知事寺田祐之に気に入られ、寺田の広島県知事転任に伴い1915年には広島商品陳列所(現・原爆ドーム)の設計を手掛けた[5]

1915年には第一次世界大戦およびその後の不景気のため、事務所を閉鎖しチェコスロバキアへ帰国した。事務所閉鎖後について本国では以下のように言われている。

  • 1918年にチェコスロバキアが独立すると商務官に任命され、極東における同国の通商代表として日本へ赴任後は在日大使館に駐在した[4]
  • 1920年にチェコへ一時帰国し、商務官として再来日した[4]
  • 日本人の5歳の女児を養子に迎えた[4]。ドイツ人の父と日本人の母の間に生まれた棄児であったという[6]

1923年9月1日の関東大震災では自身も被災し全財産を失い[7]、設計した多くの建物が被災したことを目にする。同年11月に失意の内にプラハへ帰国したが、健康が優れず設計の仕事をすることもなく入院生活を送る。1925年にプラハで病死した。45歳であった。晩年には家族友人から見放され、遺体は公共墓地へ埋葬された[4]。レッツェルが最期を迎えた病院は、彼が4歳の時に死去したベドルジハ・スメタナの収容先と同じプラハの新市街の著名な精神病院であり、部屋も同室であった[8]。死因についてもスメタナ同様、梅毒によるものとされている[6]

チェコにおける評価

レッツェルの建築家としての活動の大半が日本におけるものであり、チェコでは本国での経歴の短さからかほとんど知られていなかったが、『原爆ドームの設計者』という事から、再認識され始めている。1991年にはNHKチェコ放送の共同制作によるレッツェルに関する番組が作られた[4]。 2000年には出生地のナーホトで生誕120年祭が催された。 2009年にモラビア地方の町ブルノの墓地で神社の鳥居を模した墓石が見つかり、それがレッツェルの初期のデザインであると判明した[9]

作品

レッツェルが設計を手がけた日本国内の建造物は、廃墟として姿を止めている広島県物産陳列館(原爆ドーム)を除き、ほとんどが地震・戦災・火災により消失し現存していない。

その他

チェコ通産省庁舎
  • 藤森照信『建築探偵奇想天外』によればチェコの温泉地ムシュネーにレッツェルの作品(1905年)が残っており、アール・ヌーヴォー風の壁画が描かれているという。
  • 1991年には、NHKチェコ放送との合作により、ドラマ「ヤン・レツル物語〜ヒロシマドームを建てた男〜」が制作された。作品内においては、アジアの果ての国に心酔するおかしな人物と周囲から見做され、手がけた建物が災害により次々と崩壊するのを目にして死んだ、悲劇的な人物として描かれている。

脚注

  1. ^ 『絵はがきで見る日本近代』富田昭次、青弓社, 2005 p182
  2. ^ 広瀬毅彦『没後百周年記念 既視感(デジャブ)の街へ ロイヤルアーキテクト ゲオログ・デラランデ 新発見作品集』pp142-149,171 [1]
  3. ^ a b Radio Praha A look at the Czech architect who built Hiroshima's Industrial Promotion Hall - today's A-Bomb Dome 閲覧2012-6-10
  4. ^ a b c d e f Radio Praha Arquitecto Jan Letzel閲覧2012-6-10
  5. ^ 『絵はがきで見る日本近代』富田昭次、青弓社, 2005p182
  6. ^ a b Adam Hájek (2010年8月6日). “Atomový dóm od českého rodáka je už 65 let mementem hirošimské zkázy” (チェコ語). cs:iDNES.cz. 2022年8月6日閲覧。
  7. ^ 追悼記事
  8. ^ Bruno Solařík (2019年6月8日). “Pod jícnem je tma - KULTURNÍ NOVINY” (チェコ語). nezávislé mediální družstvo (production). 2022年8月6日閲覧。
  9. ^ Radio Praha Early work by architect Jan Letzel discovered at Brno cemetery閲覧2012-6-10

外部リンク