ブレスラウ (軽巡洋艦)

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1912年撮影のブレスラウ
艦歴
発注 フルカン造船所
起工 1910年
進水 1911年5月16日
就役 1912年5月10日
退役
その後 1918年1月20日触雷沈没
除籍
性能諸元
排水量 常備:4.564トン
満載:5,281トン
全長 138.7m
136.0m(水線長)
全幅 13.5m 
吃水 4.93m(前部)
5.73m(後部)
機関 シュルツ・ソーニクロフト式式石炭専焼水管缶16基
+AEG-フルカン式低速・高速型直結タービン2組4軸推進
最大
出力
33,482hp
最大
速力
27.5ノット
航続
距離
12ノット/5,820海里
燃料 石炭:450トン(計画)、1,200トン(満載)
乗員 354名
兵装 10.5cm(45口径)単装速射砲12基
50cm水中魚雷発射管単装2基
機雷120個
装甲 舷側:60mm
甲板:40mm
主砲塔:50mm(前盾)、-mm(側盾)、-mm(後盾)
司令塔:100mm

ブレスラウ (ドイツ語:SMS Breslau) は、1911年進水ドイツ海軍小型巡洋艦Kleiner Kreuzer)である。マクデブルク級1914年からはオスマン帝国海軍所属となり、ミディッリ (トルコ語:Midilli) と改名された。

艦歴

1911年5月16日進水。艦名は現在はポーランド領となっているヴロツワフのドイツ語名である。1912年就役し、モンテネグロ封鎖に参加した。1913年には、カール・デーニッツ中尉がブレスラウの士官に就任している。

1911年撮影のブレスラウ

第一次世界大戦勃発時ブレスラウは巡洋戦艦ゲーベンとともに地中海に配備されており、イギリス海軍フランス海軍の追撃を受けて逃亡した2隻はオスマン帝国へ向かってそのままオスマン帝国海軍所属となった。その際、ゲーベンはヤウズ・スルタン・セリム、ブレスラウはミディッリと改名された。ミディッリは、現在はギリシャ領になっているレスボス島のトルコ語名である。

1914年撮影のミディッリ
1914年撮影のブレスラウの乗員。ブレスラウの乗員は艦ごとオスマン帝国海軍に編入された


1914年10月29日、オスマン帝国海軍は黒海沿岸のロシア帝国領に対する攻撃をおこなった。ミディッリはノヴォロシースクに対する攻撃を行ったが、ロシア側は保有するあらゆる艦船より速力のあるミディッリに対し、なんら有効な反撃を加えることができなかった。ミディッリの速力は、当時の黒海艦隊で最も新しかった巡洋艦よりずっと優れていたのである。11月18日、ヤウズ・スルタン・セリムとミディッリはサールィチ岬沖でロシア艦隊と遭遇し、サールィチ岬の海戦が発生した。12月23日から24日の夜、ロシア軍はゾングルダク港を旧式船を沈めることで封鎖しようと試みる閉塞作戦を実行していた。24日未明、ミディッリはそれら閉塞船と遭遇し2隻を沈没に追い込んだ。

1915年1月6日防護巡洋艦ハミディイェとミディッリはヤルタ沖でロシア艦隊と遭遇し、ミディッリは戦艦エフスターフィイに命中弾を与えた。6月10日、ミディッリはボスポラス海峡北方でロシアの駆逐艦2隻と交戦し、1隻を大破させたが、ミディッリも命中弾を受けた。7月18日、ボスポラス海峡沖で触雷して損傷する[1]。これにより、ミディッリは長らく修理に入ることを余儀なくされた。

1916年3月2日、人員および物資輸送任務からの帰路、ミディッリはゾングルダク北方で短時間ロシア駆逐艦2隻と交戦した。4月3日、ミディッリはロシアの掃海艇T-33を攻撃した。4月4日、ミディッリは戦艦インペラトリッツァ・エカチェリーナ・ヴェリーカヤを中心とするロシア艦隊と遭遇し攻撃を受けた。7月22日機雷敷設のため出撃していたミディッリはスィノプ北方で迎撃に出てきたロシア艦隊と出遭った。まず、ミディッリはロシア駆逐艦シチャスリーヴィイと交戦した。続いて戦艦インペラトリッツァ・マリーヤが現れミディッリを攻撃したが、ミディッリは直撃弾を受けることなく逃走に成功した。

1917年6月25日、ミディッリはドナウ川河口への機雷敷設などを行った。翌日、戦艦スヴォボードナヤ・ロシヤ(旧インペラトリッツァ・エカチェリーナ・ヴェリーカヤ)を含むロシア艦隊と出会い攻撃を受けた。

1918年1月20日、ヤウズ・スルタン・セリムとミディッリはダーダネルス海峡を出てイムロズ島のKusu湾にいたイギリスモニター2隻(ラグランM28)を撃沈した。それから2隻はリムノス島へ向かおうとしたが、その際にミディッリは触雷し沈没した。

脚注

  1. ^ これについては、ロシア側のどの艦船が敷設した機雷であるのか、ロシアで論争がある。つまり、黒海艦隊の機雷敷設潜水艦クラープの敷設によるとする意見と、機雷敷設艦アレクセイ大公コンスタンチン大公クセーニヤ大公妃が敷設したものとする意見である。

関連項目

外部リンク