ビスマーク・シー (護衛空母)
艦歴 | |
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発注: | |
起工: | 1944年1月31日 |
進水: | 1944年4月17日 |
就役: | 1944年5月20日 |
退役: | |
その後: | 1945年2月21日に戦没 |
性能諸元 | |
排水量: | 7,800 トン (7,925メートルトン) |
全長: | 512 ft 3 in (156.1 m) |
全幅: | 108 ft (32.9 m) |
吃水: | 22 ft 4 in (6.8 m) |
機関: | 3段膨張式蒸気機関2基2軸、9,000馬力 |
最大速: | 19ノット |
航続距離: | 10,240カイリ(15ノット/時) |
乗員: | 士官、兵員860名 |
兵装: | 38口径5インチ砲1基 40ミリ機関砲8基 20ミリ機銃12基 |
搭載機: | 27機 |
ビスマーク・シー (USS Bismarck Sea, AVG/ACV/CVE-95) は、アメリカ海軍の護衛空母。カサブランカ級航空母艦の41番艦。艦名はニューギニア北部のビスマルク海に因む。
艦歴
アリクラ・ベイ (USS Alikula Bay) は1944年4月17日にワシントン州バンクーバーのカイザー造船所で、モンラッド・C・ウォールグレン夫人(ウォールグレン上院議員の妻)によって進水し、1944年5月16日にビスマーク・シーに改名、5月20日に海軍に移管し、同日J・L・プラット艦長の指揮下就役する。
なお、最初の艦名のアリクラ・ベイは、アラスカ州南東部のアラスカ湾のコロネーション島にあるアリクラ湾にちなむ。以前に建造中のカサブランカ級護衛空母2番艦に名付けられたが、進水前にコーラル・シーに改称され、後にアンツィオに改称されている。
1944 - 1945
1944年7月から8月にかけて、ビスマーク・シーはカリフォルニア州サンディエゴとマーシャル諸島の間で船団護衛を行う。サンディエゴでの修理および追加の訓練の後にウルシー環礁に向かい、第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将)に合流する。1944年11月12日から11月23日までレイテ島沖での作戦活動に従事し、その後1945年1月9日から1月18日にかけてリンガエン湾上陸作戦に参加した。
喪失
2月16日、ビスマーク・シー以下第52任務部隊(ウィリアム・H・P・ブランディ少将)の護衛空母群は硫黄島沖に到着し、硫黄島の戦いの支援を開始した。この日は朝から天候が優れなかったものの[1]、90機の艦載機が硫黄島攻撃を行った。2月17日と18日にも出撃を行い、2月19日の上陸作戦に向けての露払いを行った。
この頃、第三航空艦隊(寺岡謹平中将)はアメリカ艦隊への反撃作戦をいくつか講じていたが、彼我の戦力差などを考慮して「少数機の部隊を小刻みに発進させて奇襲を行う」という戦法に決定した[2]。これを受け、第六〇一海軍航空隊は彗星12機、天山8機、零戦12機を攻撃隊として用意して「第二御楯特別攻撃隊」と命名し、八丈島を中継して攻撃することとなった[2]。第二御楯特攻隊2月20日に最初の出撃を行ったが悪天候で引き返し、天候が持ち直した翌2月21日に再び出撃[2]。八丈島に到着後、部隊は5つに小分けされ、15分間隔で[3]硫黄島近海に向かって出撃していった[2]。
ビスマーク・シーはこの時硫黄島の東方海上にあり、第二御楯特攻隊の攻撃で大破した空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) の航空機を収容した他、ウェーク・アイランド (USS Wake Island, CVE-65) とナトマ・ベイ (USS Natoma Bay, CVE-62) の航空機も収容して、艦は航空機であふれかえっていた[4]。ガソリンを抜く暇も無く、航空機は片っ端から格納庫に押し込められていった[4]。
2月21日の日没は18時25分と記録された[5]。その直後、ビスマーク・シーの見張りは水平線上に接近してくる3つの目標を発見[5]。ビスマーク・シーはルンガ・ポイント (USS Lunga Point, CVE-94) に向かっていた3つの目標に対して対空砲火を撃ち、1機を撃墜した[5]。一時はサラトガの航空機とも思われた[4]残る2機の特攻機がビスマーク・シーに急速に接近してきたが、一部の機関砲および機銃は射程内にルンガ・ポイントが入ってきたため撃てなかった[5]。やがて、その航空機は右舷後部の40ミリ機関砲座の下に突入し、ハンガーデッキと弾薬庫を破壊。格納してあった航空魚雷4本を叩き落して爆発を起こさせた[6]。その火災は押さえることができたものの、間もなく別の特攻機、あるいは通常の攻撃機から投下された爆弾[2]が後部エレベーターシャフトに命中して海水消火システムを破壊。また、ガソリンを抜き終わっていない航空機の中で爆発したため、格納庫内の航空機、燃料、弾薬に次々と引火して火山の様となった[5]。ビスマーク・シーは消火隊が焼死した他、後部にいた乗員が爆発で海に放り出された[5]。
ビスマーク・シーは、もはやそれ以上のダメージ・コントロールが不能となった。最初の特攻機が命中してからわずか15分後、艦の放棄が命じられた。総員退艦の命令は口伝で行われた[7]。ビスマーク・シーは爆発を繰り返して右舷側に倒れ、20時8分に犠牲者318名とともに艦尾から沈没していった[8][9]。護衛駆逐艦エドモンズ (USS Edmonds, DE-406) が救助作業を行い、夜間の荒海の中プラット艦長を含む378名を救出。生存者は攻撃輸送艦ディッケンズ (USS Dickens, APA-161) とハイランズ (USS Highlands, APA-119) に移送され、エドモンズの乗組員30名が傷つき疲れ果てた救助者達に同行した。
ビスマーク・シーは第二次世界大戦の戦功での3つの従軍星章を受章した。
脚注
参考文献
- 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
- デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上・下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0、ISBN 4-7887-8218-9
- 梅野和夫「第2御楯隊の突入をうけたビスマーク・シー」『写真・太平洋戦争(4)』光人社、1989年、ISBN 4-7698-0416-4
- リチャード・F・ニューカム/田中至(訳)『硫黄島 太平洋戦争死闘記』光人社NF文庫、1996年、ISBN 4-7698-2113-1