ビザンティン文化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。コンスタンティノープルからの使者 (会話 | 投稿記録) による 2021年11月4日 (木) 08:50個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎文学)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ビザンティン文化(ビザンティンぶんか)は、東ローマ帝国(ビザンティン帝国、ビザンツ帝国)で栄えた文化のこと。日本では、ビザンツ文化と呼ぶ場合もある。

概要

古代ギリシアヘレニズム古代ローマの文化にキリスト教・ペルシャやイスラムなどの影響を加えた独自の文化であり、正教会を信仰する諸国および西欧のルネサンスに多大な影響を与えた。また一部の建築技術などはイスラム文化と相互に影響し合っている。

ギリシャ人が国民の多くを占め、キリスト教国教とした東ローマ帝国で、ヨーロッパの文化の二大基盤といわれる「ヘレニズムヘブライズム」が時には対立をしながらも融合して形成された文化であり、ヨーロッパの文化形成に与えた影響は大きいといえる。

文学

ギリシャ語を日常語・公用語とした東ローマ帝国では古代ギリシア古典作品が尊重されており、中等教育では古典ギリシア語の文法が教えられ、官僚知識人の間ではホメロスの詩を暗誦できるのが常識とされていた[1]。古代ギリシア・ローマの古典作品の大半は、ギリシア人が多数を占めていた東ローマ帝国の下で伝えられてきたものであり、それらの写本が帝国滅亡後にイタリア等へ伝えられてルネサンスに大きな影響を与え、結果として現代まで古代ギリシア・ローマの古典作品が残されることになった。

例えば12世紀の皇帝アレクシオス1世コムネノスアンナ・コムネナは『アレクシアス』(後述)の序文で自らについて、

緋色の産室で生まれ育てられ、読み書きは言うまでもなく、完璧なギリシア語を書けるよう精進し、修辞学をなおざりにせず、アリストテレスの諸学とプラトンの対話作品を精読し、学問の四学科(天文学幾何学算術音楽)で知性を磨いたものである[2][3]

と記している。

歴史書ヘロドトストゥキディデスなどの古代ギリシアの歴史家による歴史書の形式に倣って書かれたものが多い。著名なのは、6世紀のプロコピオスユスティニアヌス1世の業績について書いた『戦史』『建築について』、および同一作者がユスティニアヌス夫妻の悪口を書いた裏ノート『秘史』、10世紀の『テオファネス年代記』、11世紀宮廷権力を振るった官僚ミカエル・プセルロスの『年代記』、アンナ・コムネナ(前述)の『アレクシアス(アレクシオス1世伝)』、13世紀の官僚・知識人であるニケタス・コニアテスが書いた『年代記』、末期の皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスの『歴史』などがある。これらの歴史書や神学書等は、大半が古典ギリシア語で書かれ、さらにはロシア人トルコ人といった周辺諸民族を、あえて古代にその地にいた「スキタイ人」・「ペルシア人」と表記するなど、東ローマの知識人の古典趣味は徹底したものであった[4]

その他の文学作品としては、叙事詩宗教詩宗教音楽小説ビザンティン小説)、哲学書などがある。これらも古代のや音階、プラトンアリストテレスの哲学書に倣って書かれ、中には最近まで古代の作品だと思われていた程のものまであるが、古典ギリシア語ではなく、当時の民衆の言葉で書かれた詩や小説も少数では有るが存在する。

また歴代の東ローマ皇帝の中には、前述のヨハネス6世の他にも10世紀レオーン6世コンスタンティノス7世親子や帝国末期のマヌエル2世パレオロゴスなどのように、自ら優れた詩や歴史書などを残した者もいる。コンスタンティノス7世は学芸を奨励し、後世「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれる文化の黄金時代を築いた。彼が息子ロマノス2世のために残した『帝国統治論』(帝国の周辺諸民族や諸外国地理についての情報、帝国の外交について記した書)および『儀式の書』(古代末期から10世紀に至る皇帝の即位式や凱旋式結婚式などの儀礼について記した書物)は当時の東ローマ帝国や、ロシア人などの周辺諸民族を知る上での貴重な資料となっている。

美術

建築

教会音楽

脚注

  1. ^ 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社学術文庫、2008年。 p152-153
  2. ^ アンナ・コムニニ(アンナ・コムネナ) 著、相野洋三 訳『アレクシアス』悠書館、2019年。 p1
  3. ^ 井上浩一『歴史学の慰め アンナ・コムネナの生涯と作品』白水社、2020年。 p137
  4. ^ *井上浩一栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年。ISBN 4-12-403411-3 p18

関連項目