龍徳寺 (鳥取県若桜町)

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龍徳寺
所在地 〒680-0701鳥取県八頭郡若桜町若桜665
位置 北緯35度20分37.03秒 東経134度23分39.31秒 / 北緯35.3436194度 東経134.3942528度 / 35.3436194; 134.3942528座標: 北緯35度20分37.03秒 東経134度23分39.31秒 / 北緯35.3436194度 東経134.3942528度 / 35.3436194; 134.3942528
山号 萬祥山
宗派 曹洞宗
創建年 享禄2年(1529年)
法人番号 3270005002375 ウィキデータを編集
龍徳寺の位置(鳥取県内)
龍徳寺
龍徳寺
龍徳寺 (鳥取県)
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龍徳寺(竜徳寺[1]、りゅうとくじ[2])は鳥取県八頭郡若桜町にある曹洞宗寺院

寺院の概要[編集]

曹洞宗の寺院で、山号は萬祥山。戦国時代末期から江戸時代初期に若桜鬼ケ城城主として若桜宿を治めた山崎家盛と一族の菩提寺である[3]釈迦牟尼本尊とし、脇仏として観世音菩薩を有する[2]

広い境内を有し、堂内から庭園を眺めると、その向こうには三倉富士と呼ばれる山が一望され、佳景として知られる[2]

併設する幼稚園は宗教情操教育を行うことで有名だった[2]。毎年の夏、寺では小中学生を集めた泊まり込みの坐禅会を行っており、「緑陰の集い」として知られている[2]

歴史[編集]

草創期は用呂の「千石岩」の下にあったと伝わる。
山門

龍徳寺の開山は享禄2年(1529年)とされている[2]。当時、因幡国を代表する曹洞宗の寺として、因幡国西部の鹿野譲伝寺があった[3]。その6代住職の琴雪長素(きんせつちょうそ)が、八東郡の用呂村(現在の八頭町用呂[注 1])の「千石岩」の下[4]に堂宇を開いたのが龍徳寺の創始と伝わる[5]

用呂村にはこれとは別に、天台宗の毫照寺という寺院があり、戦国時代に一帯を支配した若桜鬼ヶ城矢部氏の庇護を受けていた[6]。しかし天正年間(1573年 - 1591年)に豊臣秀吉が因幡への侵攻を開始し、その侵入経路となった用呂では戦火によって毫照寺を焼失したという[7][注 2]。龍徳寺もこの時期に3代住職の祖山宗印によって、八東川を挟んで対岸の高野村(現在の若桜町高野)へ移転し、石頭院と号した[2][注 3]

その後、寺は一時的に三倉村(現在の若桜町三倉[注 4]。)に境内地を変え、慶長7年(1602年)に若桜鬼ケ城の城主山崎家盛が山崎家の菩提寺と定めて若桜宿鉄砲町(現在地)に遷した[5]。このときに山号を萬祥山とし、寺号を龍徳寺と改めた[2][注 5]

江戸時代には譲伝寺の末寺に位置づけられていたが、龍徳寺自身も近傍4寺を末寺としており、鳥取藩によって寺領約1(15)を安堵された[3][5]

影響力[編集]

草創期から江戸時代初期にかけて、創始者の琴雪長素を祖とする一派は因幡国や伯耆国各地に広がった。彼らが興した寺院としては、岩美町の瑞泉寺(竹翁玄虎開山)、若桜の観音寺(祖山宗印開山)、鹿野の雲竜寺(忠岳宗恕開山)、鳥取の天徳寺(梅萼永麘開山)などがある[3]

文化財[編集]

境内には山崎家盛の遺髪塔(元和三年五月十八日の銘、高さは五尺五寸)があり[1][注 6]、同じ基壇の上に十数基の五輪塔が祀られている。

山号額は月舟宗胡(1618年-1696年)による作[2]。また、寺に伝わる梵鐘の銘は江戸時代中期の僧、面山によるもの[2]。境内の観音堂は西国33ヶ所の観音菩薩を祀っている[2]

1991年に行われた環境庁(現環境省)による「自然環境保全基礎調査」では、樹高25メートル、幹の周囲6メートルになる境内のイチョウの大木が「龍徳寺のイチョウ」として掲載されており、推定樹齢300年となっている[12]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 用呂地区は若桜町中心部から八東川の約1-3km下流にあり、対岸に位置する。
  2. ^ 織田信長の命を受けて豊臣秀吉が自ら因幡国へ侵入したのは天正8年(1580年)5月である[8]。しかしそれに先立って、因幡国では山名氏尼子氏毛利氏らによる争いが行われており、織田信長もこれに介入していた[9]。交通の要衝である若桜鬼ヶ城周辺はその頃主要な戦地になっていて、天正3年(1575年)には織田氏の支援を受けた尼子勝久山中幸盛が若桜鬼ヶ城を攻め落とし、同年秋には毛利氏と山名氏が連合して尼子勝久のいる若桜鬼ヶ城を攻撃している[9]。その後も城の周辺では合戦が繰り返され[10]、天正4年5月の合戦で尼子勢は若桜方面からの撤退を余儀なくされた[9]。その後、天正8年に秀吉の本格的な侵攻が行われた[7]
  3. ^ 天台宗毫照寺はのちに再興されたが、江戸時代初期(延宝4年(1676年))に曹洞宗鹿野譲伝寺の末寺に組み込まれた[6][7]
  4. ^ 若桜宿の裏山を越えた山奥の谷筋(八東川支流の三倉川)にあたる。若桜宿鉄砲町への移転後の境内地は、この三倉川の谷の入り口に相当する。三倉川をはさんだ対岸には若桜神社が鎮座する。
  5. ^ 寺号は山崎家盛の父、山崎片家の法号と同じである[11]
  6. ^ 山崎家盛の墓そのものは京都・山科の瑞光院[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c 新版『鳥取県の歴史散歩』(新全国歴史散歩シリーズ31)p92-93、および『鳥取県の歴史散歩』(歴史散歩31)p110-111
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『鳥取県大百科事典』p1018「龍徳寺」
  3. ^ a b c d 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p837「龍徳寺」
  4. ^ 現地案内看板。
  5. ^ a b c 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p302-304「若桜宿」
  6. ^ a b 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p300「用呂村」
  7. ^ a b c 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p815「用呂」
  8. ^ 『織田VS毛利 鳥取をめぐる攻防』p29-40「秀吉の第一次因幡攻め」
  9. ^ a b c 『織田VS毛利 鳥取をめぐる攻防』p5-19「織田・毛利の対立」
  10. ^ 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p304-305「鬼ヶ城」
  11. ^ 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 宇多源氏 佐々木庶流 山崎氏」『寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書、1923年、249頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082714/133 国立国会図書館デジタルコレクション 
  12. ^ 環境省自然環境局生物多様性センター,環境庁第4回自然環境保全基礎調査(1991年),日本の巨樹・巨木林 中国・四国版 (PDF) ,31-29ページ,2017年10月14日閲覧。

参考文献[編集]