須賀浦海水浴場

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須賀浦海水浴場(すがうらかいすいよくじょう)は、三重県四日市市天ヶ須賀地区の伊勢湾沿岸に開設されていた海水浴場である。ここ須賀浦ともいう[要出典]。遠浅の海水浴場として知られた。交通アクセスは近鉄富洲原駅(三重郡富洲原町大字松原平町→三重郡川越町大字豊田に立地)から下車する。名古屋方面からのたくさんの観光客で賑わった。

概要[編集]

  • 須賀浦海水浴場の地形(南端・北端・沖合・南側・北側)は以下である。
  1. 南端は、天ヶ須賀1丁目である。
  2. 北端は、天ヶ須賀2丁目である。
  3. 沖合は、伊勢湾沿岸(現在の四日市市天ヶ須賀新町工業団地沿いの四日市港の霞埠頭)である。
  4. 南側は、富田一色地区と天ヶ須賀地区の中間にある富洲原漁港。
  5. 北側は、三重郡川越町上吉地区の高松海岸である。

浜洲の宅地化[編集]

  • 三重郡富洲原町時代の歴史資料では大正時代富田一色出身者の伊藤平治郎は天ヶ須賀の浜洲が利用されず、ここ須賀浦の土地が荒廃しているのを視察して、天ヶ須賀地区の浜洲の開発のひらめいた。ここ須賀浦海岸が景勝の土地である事から天ヶ須賀村の事業として浜洲の宅地化事業として別荘地の開発して富裕層の売却して三重郡富洲原町の財源にしようと思考した。以前より廃止堤防が存在したので、堤防跡地と土盛りにして高波防止機能の防波堤として、廃止堤防の海側に宅地と別荘地を造成した。浜洲の開発事業には堤防道路の幅を三間にする事で地元天ヶ須賀地区民の反対もあったなどの問題もあった。須賀浦の浜洲は1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風で大規模被害を受けて、現在では海側に新防波堤の名四国道ができているが、その内側にある道路の旧堤防との間に大正時代からの家が数戸残っている。

歴史[編集]

  • 須賀浦海水浴場はここ須賀浦海水浴場ともいい、大正時代中期から快適な海水浴場として名乗り上げた。「ここ須賀浦」は、文字通り白砂・青松の遠浅の砂はまがきが続き、しかも、波はまことに静かで遠く知多半島を望む事ができ、海水浴場として好条件であった。しかし不利な条件として交通が不便であるため多くの客を呼ぶ事ができなかった。
  • ところが、1929年(昭和4年)に、伊勢電鉄が(現在の近畿日本鉄道)が四日市駅から~桑名駅間が開通した事と、三重郡富洲原町松原地区平町に伊勢電鉄富洲原駅が開設された事によって、桑名市方面や名古屋市方面からの客が急増した。富洲原駅の開設と同時に、ここ須賀浦海水浴場がある天ヶ須賀地区の浜辺には、旅館などの宿泊施設も設けられた。『想い出の伊勢電特急』の記述では遠浅で婦女子にも危険がなくて、毎年名古屋方面から多数の小学生水泳の練習に来る。旅館・掛茶屋・無料休憩所が並ぶ富田の焼き蛤の養殖場がある。[1]
  • 葭簀張りの売店が立ち並び、天ヶ須賀本町の浜には、噴水もできて7月から~8月の2か月間は大いに賑わった。海水浴客の中には、日帰りの客以外に、「汐とり」や「汐湯治さん」という、長期間宿泊して海水浴をする人々があった。ここ須賀浦海水浴場の観光の最盛期には、天ヶ須賀の民家に150軒位が海水浴客を受け入れた。以前は2階建ての家はほとんど存在しなかったが、団体客が宿泊するようになると全体が総2階建てに家を建築して、1階~2階を開放して、家族は夏の期間に小屋に居住する家の存在した。都会の名古屋の家族と田舎の富洲原の須賀浦の家族が1つの家の共同居住する飾り気のない交流が存在した事は、天ヶ須賀の人達にとって貴重な体験で、良い思い出だった。戦後は須賀浦海水浴場に名古屋の学童が水泳訓練や海浜学校を行う伊勢湾水練学校が開設されて、夏休み中に近鉄名古屋駅から~富洲原駅の間を学童専用の貸切電車が走行していた。また、名古屋の健康保険組合や、三重郡朝日町東芝三重工場の社員が利用する『海の家』が建設された。しかし天ヶ須賀地区に魚などの水産加工業が盛んになる、水産物の悪臭とともに売店は衰退して、伊勢湾台風1959年(昭和34年)頃には、浜店も草分けの浦島亭だけになっていた。

現在[編集]

  • 伊勢湾台風以後は、防波堤国道23号線(名四国道)の建設が進み、昔の波打際は一変して1日に数万台の車両が通過する国道となり、今までの自然ある須賀浦の風景は見るかげもなくなった。名四国道開通で須賀浦海水浴場もなくなった。埋立地に昭和60年代に天ヶ須賀新町工業団地や富洲原地区運動場が造成された[2]
  • 富洲原地区にある四日市市立富洲原中学校の校歌には、「ここ須賀浦(すがうら)の松青く」という語句が歌詞に織り込まれている。

アクセス[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 想い出の伊勢電特急「はつひ」で85分の旅の1ページの記述[要検証]
  2. ^ 四日市市立富洲原小学校100周年記念誌162ページ17行目~163ページ(昭和51年発行)

参考文献[編集]