総社二子山古墳

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総社二子山古墳
Maebashi Souzya-hutagoyama Kohun 1.jpg
総社二子山古墳(2014年5月)
位置 北緯36度24分41秒
東経139度2分5.3秒
座標: 北緯36度24分41秒 東経139度2分5.3秒
所在地 群馬県前橋市総社町植野
形状 前方後円墳
規模 全長約90m
築造年代 6世紀末
埋葬施設 両袖型横穴式石室
出土品 頭椎大刀、六鈴釧、金耳環など
史跡指定 1927(昭和2)年国指定
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総社二子山古墳(そうじゃふたごやまこふん)は、群馬県前橋市総社町にある前方後円墳である。国の史跡に指定されている(指定名称は「二子山古墳」)。総社古墳群を構成する1基である。

概要[編集]

  • 全長89.8m[1]
  • 後円部径44.2m、高さ7.5m
  • 前方部幅60m、高さ8.0m

墳丘の中心軸は東西方向で、前方部を西に向ける。周囲の地形から周堀の存在が予想されるが、詳細は不明である。

前方部と後円部の両方に両袖型横穴式石室があるが、両者は工法を異にしている。

後円部石室は全長9.4m、玄室長6.88m、幅3.4mと群馬県内有数の規模をもち、榛名山二ッ岳噴出の角閃石安山岩の切石を互目積みにしている。現状では天井石が崩落している。羨道は現状長さ1.9メートルだが、本来の長さは2.5メートルと推定される[2]

前方部石室は全長8.76m、玄室長4.27m、幅2.22mとやや規模も小さく自然石をもって構築し、後円部石室とは趣を異にしている[2]

石室はともに江戸時代に開口し、遺物が藩に届出られている。このうち勾玉、金耳環、銅製六鈴釧、鉄鏃、脚付長頸壺などが東京国立博物館に所蔵されており、長頸壺は寛政年間(1789 - 1801年)、その他の遺物は文政2年(1819年)の出土と伝える。古記録によれば、他に銀装頭椎大刀(かぶつちのたち)などが出土しているが、所在不明である[2]

築造時期は使用石材、石材加工などの点から前方部石室が6世紀末、後円部石室がそれにやや遅れるとされてきたが、この築造順序を逆にみる意見も出ている。

陵墓探索運動[編集]

1871年2月陵墓の全国調査が太政官布告として全国に通知され、これを受けて群馬県ですぐに対応したのが総社二子山古墳である[3]。群馬県は1874年教部省上野毛下野毛の始祖とされる豊城入彦命崇神天皇第1皇子)の陵墓として当古墳を申請して認められ、翌年には教部省から豊城入彦命の墓に墓掌・墓丁がおかれることになった。

しかし1876年宮内省からの給料をめぐり村内で紛糾が起こり、墓掌・墓丁が辞職し自然解消のやむなきに至った。

本古墳の陵墓指定解除の後再度調査が行われ、大室古墳群前二子古墳が豊城入彦命の陵墓に認定された。

脚注[編集]

  1. ^ 大塚初重小林三郎・熊野正也編 『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年9月、504頁
  2. ^ a b c 文化庁文化財保護部史跡研究会監修 『図説日本の史跡 2 原始2』同朋舎出版、1991年6月、77-78頁
  3. ^ 前原豊 『東国大豪族の威勢・大室古墳群(群馬)』シリーズ「遺跡を学ぶ」063、新泉社、2009年12月、10-11頁

関連項目[編集]

外部リンク[編集]