知恵の館

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知恵の館の学者達(1237年画)

知恵の館(ちえのやかた; アラビア語:バイト・アル=ヒクマ, بيت الحكمة Bayt al-Ḥikmah)は、830年アッバース朝の第7代カリフマームーンが、バグダードに設立した図書館であり[1]天文台も併設されていたと言われている。知恵の家と訳される場合もある。

サーサーン朝の宮廷図書館のシステムを引き継いだもので、諸文明の翻訳の場となった[2]。「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」は「図書館」を指すサーサーン朝の呼び名の翻訳だと言う。

主要活動[編集]

ギリシア語の学術文献の、アラビア語への翻訳であった[1]。時にはシリア語を介しての翻訳になった。

国家事業として、医学書・天文学占星術を含む)・数学に関するヒポクラテスガレノスなどの文献から、哲学関係の文献はプラトンアリストテレスとその注釈書など、膨大な書物が大々的に翻訳された(「大翻訳」)。 また、使節団を東ローマ帝国に派遣して文献を集めることもあった。

10代カリフ・ムタワッキル(在位:847年 - 861年)以降の反動期によって、活動が急速的に衰えていくこととなった。

スタッフ[編集]

スタッフの多くは、シリアネストリウス派単性論派のキリスト教徒ハッラーン出身のサービア教徒であった。

ローマ帝国主要部のキリスト教は、4世紀から6世紀にかけて、「イエスは神の属性のみを持つ」という思想と、ギリシア哲学を異端としてしまった。そのため、ネストリウス派などは東方に逃れることとなった。


影響[編集]

翻訳のおかげで、イスラム世界のさまざまな人々が、アラビア語で学問を論じ始め、アラビア語は知的言語・共通言語としての力を高めることともなった。

古代ギリシアからヘレニズム科学や哲学などの伝統が、イスラム世界に本格的に移植・紹介され、独自の発展をたどることとなる。

ユダヤ教徒も、サアディア・ベン・ヨセフマイモニデスは言うまでもなく、哲学関係の書をアラビア語で読み書きするようになった。それまでユダヤ教徒の間ではアラム語ギリシア語が共通語・日常語であったが、アラビア語に取って代わられるようになった(ユダヤ教シナゴーグ聖書解釈・作といったものなどに関する場面以外は、アラビア語で話し、書くようになっていった)。

その後[編集]

時代は飛ぶが、12世紀を最後に、イスラム世界におけるギリシア哲学研究は停滞し始め、ユダヤ教徒も次第に哲学に関してヘブライ語で書くようになり(書き言葉としてのヘブライ語の復興)、ラテン語を学ぶユダヤ教徒も出てくる。

脚注[編集]

  1. ^ a b 金子 光茂 (2000), “西欧文明の基礎を築いたイスラーム”, 大分大学教育福祉科学部研究紀要 22 (1): 123, http://ir.lib.oita-u.ac.jp/dspace/handle/123456789/3623 2009年10月27日閲覧。 
  2. ^ 谷崎 秋彦 (2006), “翻訳の運命と目的地 ベンヤミンの翻訳論”, 東京工芸大学工学部紀要. 人文・社会編 29 (2): 16, ISSN 03876055, http://ci.nii.ac.jp/naid/110006217602/ 2009年10月27日閲覧。 

関連項目[編集]