「海城地震」の版間の差分

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'''海城地震'''(かいじょうじしん)は、[[中華人民共和国]][[遼寧省]][[海城市]]一帯で[[中国標準時|現地時間]](UTC+8)[[1975年]][[2月4日]]19時36分([[UTC]]:11時36分)に発生した地震である。事前に予知された[[地震]]である。
'''海城地震'''(かいじょうじしん)は、[[中華人民共和国]][[遼寧省]][[海城市]]一帯で[[1975年]][[2月4日]]19時36分([[中国標準時]], UTC+8)に発生した[[マグニチュード]]([[表面波マグニチュード|Ms]])7.3の[[地震]]である。行政当局が事前に警報を出して住民を避難せており、避難が行われた地域では人的被害が軽微で済んだため、結果的に[[地震予知]]の数少ない成功例となったことで著名である。


== 概要 ==
== 地震の状況 ==
マグニチュードは、表面波マグニチュードで(Ms)7.3、[[モーメントマグニチュード]]で(Mw)7.0であり、記録が残る遼寧省の地震の中では最大規模とされている。震央は海城県(当時、現在は海城市)の中心部から南東20km付近にある村"岔溝鎮"付近、震源の深さは12kmであった。[[震度階級|震度]](中国では[[:zh:中国地震烈度表|地震烈度]])分布を見ると、震央付近の幅20-30km・面積にして約760km³の範囲でこの地震最大となる烈度IX(9, [[気象庁震度階級]]で震度6相当)となっているほか、海城県中心部付近で烈度VIII(8, 震度5相当)、[[鞍山市]]中心部付近や[[営口市]]中心部付近で烈度VII(7, 震度4-5相当)などとなっている。[[アメリカ地質調査所]](USGS)によれば[[大韓民国|韓国]]の[[ソウル]]でも若干の被害があったことが報告されているほか、ソビエト連邦の[[沿海地方]]でも揺れを感じた<ref>「[http://earthquake.usgs.gov/earthquakes/world/events/1975_02_04.php Haicheng, China 1975 February 04 11:36 UTC (local time 07:36 p.m.) Magnitude 7.0]」、アメリカ地質調査所(USGS)『Historic Earthquakes』、2013年10月10日閲覧</ref>。また日本の[[気象庁]]によれば、九州地方でも有感となり[[佐賀市]]で震度2、[[大分市]]と[[熊本市]]で震度1を観測している<ref>「有感地震検索 [http://www.seisvol.kishou.go.jp/cgi-bin/shindo_db.cgi?from_YYYY=1975&from_MM=02&from_DD=04&from_hh=20&from_mm=00&to_YYYY=1975&to_MM=02&to_DD=04&to_hh=21&to_mm=00&ORG_PID=22895&pref=0&minimum_shindo=1&max_count=50&PARAM_OK_DATE=%B8%A1%BA%F7%BC%C2%B9%D4 1975/02/04 20:00 - 1975/02/04 21:00]」、気象庁『震度データベース検索』、2013年10月10日閲覧</ref>。
[[マグニチュード]]は7.3(Mw7.0)で、震源は[[海城市]]、[[営口市]]付近の深さ16kmから21kmの地下。この地震による死者は1,328人、重傷者は4,292人。事前に地震が予知され、100万人が避難したため、被害は最小限に収まった<ref name="kyouha">[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2008&d=0204&f=column_0204_001.shtml 【今日は何の日】1975年:海城地震の予知に成功] [[サーチナ]]</ref>。

== 被害 ==
震央付近は丘陵地帯であり、丘陵地帯の北限をなぞるように南西-北東方向に鉄道([[哈大線]])が横断している。この鉄道の北側の[[遼河平原]]では[[液状化]]や[[地滑り]]などが目立った一方、南側では激しい地震動による被害が目立ったという。遼寧省南部では被害地震の記録が少なかったため、耐震性の低い[[レンガ造]]の建物が多く、そのような建物が多数損壊した。一方[[鉄筋コンクリート]]造の建物では、軽微な被害はあったものの致命的な損壊は免れたものが多かった。海城県では、住宅のうち46%が建て替えが必要なほど甚大な被害、32%が大規模な修理を要する被害を受けるなどほとんどの建物が被害を受けた。同じく営口市でも、13%が建て替え、26%が大規模修理となっている。また火力[[発電所]]や送電網が被害を受けて大規模な停電が発生し、断水も発生した<ref name="Tamura-et82">田村重四郎 ほか「{{PDFLink|[http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/37953/1/sk034001002.pdf 海城・唐山地震の被害と中国の耐震研究]}}」、東京大学生産技術研究所『生産研究』、34巻1号, 10-24頁、1982年1月、2013年10月10日閲覧 {{NAID|120002561353}}</ref>。

人的被害の正確な数は不明である<ref name="Tamura-et82"/>が、[[新華社]]の報道では、死者は被災地の人口の0.02%にあたる2,041人で、その多くが高齢者や子供などの弱者であったほか、被害額は約810億元であったという<ref>「[http://view.news.qq.com/a/20130426/000001.htm 海城地震预报:难以传承的“经验”]」中国新闻网(''[[テンセント|腾讯]]网'')、2013年3月26日付、2013年10月10日閲覧</ref>。一方、死者1,328人、重傷者4,292人という資料もある<ref name="kyouha">「[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2008&d=0204&f=column_0204_001.shtml 【今日は何の日】1975年:海城地震の予知に成功]」 [[サーチナ]]、2013年10月10日閲覧</ref>。


== 予知 ==
== 予知 ==
まず背景として、地震活動などを根拠に遼寧省南部の地震監視体制が強化されていたことが挙げられる。1960年頃より、1966年[[邢台地震]]や1969年[[渤海地震]]などの被害地震を含め、[[河北省]]から遼寧省にかけての地域で地震活動が活発化していた。活動を監視していた当局は、地震活動が北東方向に移動していく傾向があったことなどから、1970年に遼寧省南部の監視体制を強化し、遼寧省政府に地震弁公室(後の遼寧省地震局)を設置した<ref name="Rikitake01-8-1">[[#Rikitake01|力武、2001年]]、&sect;8-1(325-327頁)</ref>。
この地震は[[地震予知|予知]]されていた。それは、「雪が積もった道路上に数匹のヘビがいる」、「ニワトリが群れで空を飛んでいる」、「ガチョウが甲高く鳴きながら飛び回っている」、「ネズミの大群が戸外にあらわれ走り回っている」、「深いはずの井戸から水があふれ出て、水質も変化した」という住民から寄せられた情報をもとに、[[中国地震局|国家地震局]]はこの現象を「地震の前兆」と判断。[[1974年]]6月に「1,2年のうちに大地震が発生する」と警報を出し、地震が発生する1975年2月4日に住民100万人をキャンプへ避難させた。そして、その日の夜にこの地震が発生した<ref name="kyouha" /><ref>[http://allabout.co.jp/gm/gc/71643/ 【地震予知】地震の予知は成功していた! (防災)] [[All About]]</ref>。


この体制下、数か月前という早期から複数の種類の前兆が出現し、それが予知へとつながった。1974年、地殻変動や地震活動、[[地磁気]]の異常などをもとに国家地震局は「[[渤海]]北部地区でかなり大きな地震が1-2年以内に起こる可能性がある」として、耐震化の方法や防災の心得、前兆の解説など地震防災教育を強化している。同年11月、国家地震局は[[大連市]]の金州断層で[[測量]]や地震活動、地磁気などの前兆が活発化している事を確認する。これを受けて12月20日、遼寧省革命委員会は市民に地震の可能性が高まっている旨を初めて市民に公表する。このころから、冬眠中の[[ヘビ]]が巣穴から出てきて凍死したり、大群で現れた[[ネズミ]]が人を警戒せず手で捕まえられるほどだったりと、[[宏観異常現象]]が多数報告されるようになる。年末には、いくつかの地域で"臨震警報"(地震発生数日前の直前予報)が出された。12月28日には[[盤山県]]内で臨震警報が出され2-3万人が屋外の[[テント]]に避難し3日間過ごしたものの、地震は発生しなかった<ref name="Rikitake01-8-1"/>。
== 関連項目 ==

*[[宏観異常現象]]
翌1975年1月中旬、国家地震局は、営口から金州にかけての地域を震源地域とし、1975年前半にM6クラスの地震の発生が想定されることを確認した。これを受けて、[[ダム]]・[[鉄道]]・[[電力系統|電力]]などの[[インフラ]]の安全対策が強化され、[[鉱山]]や[[工場]]、人口密集地など一部で[[防災訓練]]も行われた。2月1日には、営口県と海城県の県境付近で微小地震が発生し始める(後に直接的な前震の開始であることが分かる)。2月2日には、[[盤綿市]]で家畜のブタがお互いにしっぽを噛んだり餌を食べなくなったり、垣根や塀をよじ登ったりする現象や、地電位の異常があったことが報告される。2月3日には、微小地震が1時間に20回程度に急増し、[[地電位]]がパルス状変化を起こしてしばしば観測不能になる現象や、営口県で家畜の[[ウシ]]がけんかして地面を掻くなどの現象があったことが報告される<ref name="Rikitake01-8-1"/>。
*[[地震予知]]

*[[唐山地震]]
前震をはじめとした前兆の顕著な変化を受けて、日付が変わった翌2月4日0時30分頃、遼寧省地震弁公室は同省革命委員会に、微小地震の後に大きな地震が発生する可能性がある旨を報告、革命委員会はその日の朝10時に遼寧省全域に臨震警報を発表する。これを受けて各地区では、屋外の広場にテントを設営して住民の避難を促すなど緊急措置を実施する。この間にも顕著な前兆がいくつか報告されている。丁家溝という町では、手押しポンプ式[[井戸]]の水が8時頃から勝手に溢れ出し、次第に勢いを増して正午ごろには噴き上げる水の高さが1mに達した後、午後は濁ったままの状態が続いた。この町では午後に[[アヒル]]が驚いて跳び上がったという報告もある。革安山という町では[[ニホンジカ|梅花シカ]]が驚いて小屋の中で跳び上がり、走り出して押し合いながら逃走したという。1日から続いていた微小地震活動は、午前中にM4.7およびM4.2という大きめの地震を記録した後急激に減少し、午後には静穏化してしまった<ref name="Rikitake01-8-1"/>。<ref group="注">これらの他に、「[[ニワトリ]]が群れで空を飛んでいた」などの報告例もあるが、信憑性には疑問が残る。</ref><ref>「消防雑学辞典 [http://www.tfd.metro.tokyo.jp/libr/qa/qa_57.htm 57.地震と鯰]」 [[東京消防庁]]、2013年10月10日閲覧</ref>

臨震警報を受けて行われた緊急的な避難は、1説によると約100万人が対象となったといい<ref>細野透 「[http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/ba/26/index2.html 風水で地震を予知できるか]」 [[日経BP]] SAFETY JAPAN、『「危ない建築」と「安全な建築」の境目を分けるもの 来るべき「震度7」に備える』第25回、2007年9月12日付、2013年10月10日閲覧</ref>、大規模なものであった。例えば、避難を促すため営口県の官屯鎮石硼峪村では地震大隊が住民を広場に集めて[[映画]]の上映を行った。夕方に1本目の上映が開始され、2本目の映画の上映が始まった19時36分、Ms7.3の本震が発生した<ref name="Rikitake01-8-1"/>。この村では家屋の9割が倒壊したが、死者は3人にとどまった。3人の死者は、いったん避難したものの家に戻ってしまった家族だったという。また、丁家溝では8割の家が倒壊し、段々畑や溜め池が崩れたりしたが、死者はいなかった<ref name="Oike78-40">[[#Oike78|尾池、1978年]]</ref>。

この事例が世界に伝えられた際には、衝撃的な地震予知の成功事例として受け止められたという<ref name="Ishikawa08"/>。

=== 予知の背景 ===
[[力武常次]]によれば、海城地震の地震予知成功の背景には、長期予測により数年前から観測や準備が強化されていたことや、宏観異常現象を含めて前兆が数か月前と早期から発生していたことに加えて、はっきりとした[[前震]]が現れたこと、中国の政治体制のおかげで前兆の観測や報告が組織的に大規模に行われ、情報統制や避難が計画的に行われたことが挙げられる。力武は現地で担当者と意見交換を行ったが、地震の発生地域を特定するための根拠や法則が明確ではなかったといい、日本など諸外国にも適用できるような手法とは考えづらいとしている<ref name="Rikitake01-8-1"/>。

また、1年半後にこの地震の震源から約200km離れた[[唐山市]]付近を震源として発生した[[唐山地震]]では、臨震警報は出されず、20万人を超える犠牲者が出ることととなった。唐山地震では、水準測量や[[ラドン]]濃度などの前兆はあったものの、その分布が不規則で震源域の特定に至らなかったことや、前震がなかったことが予知できなかった原因とされている<ref name="Rikitake01-8-1"/><ref>[[#Rikitake01|力武、2001年]]、328-329頁</ref>。

[[石川有三]]によると、1970年代にはこうした予知活動が盛んで、特に[[ボランティア]]的な無償のものが多かった。海城地震の前、1973年に[[四川省]][[馬辺イ族自治県]]で起きたM5.8の地震(四川馬辺地震)でも、直前に警報が出されて避難が行われたという。なお、[[改革開放]]による1990年代の市場経済化や財政改革により、以降はボランティアは大きく減少し公的機関による観測に移行している<ref name="Ishikawa08">石川有三「{{PDFLink|[http://www007.upp.so-net.ne.jp/catfish/jishin-journal.pdf 中国の地震]}}」、地震予知総合研究振興会『地震ジャーナル』46号、2008年、20-28頁、2013年10月10日閲覧 {{NAID|120002561353}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
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{{Reflist}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
*[http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/ba/26/index2.html 風水で地震を予知できるか] [[日経BP]]
| author = 力武常次
*[http://www.tfd.metro.tokyo.jp/libr/qa/qa_57.htm <消防マメ知識><消防雑学辞典>] [[東京消防庁]]
| year = 2001
| title = 地震予知 発展と展望
| publisher = 日本専門図書出版
| isbn = 4-931507-01-8
| ref = Rikitake01
}}
* {{Cite book|和書
| author = 尾池和夫
| date = 1978-12-20
| title = 中国の地震予知
| publisher = 日本放送出版協会
| series = NHKブックス
| isbn = 978-4140013335
| ref = Oike78
}}([[京都大学]]学術情報リポジトリの収蔵リンク:[http://hdl.handle.net/2433/44055]) - 脚注引用部分以外にも、当時の状況や地震予知の展望について、予知に対して楽観的な観点から詳しく解説されている。

== 関連項目 ==
*[[宏観異常現象]]
*[[地震予知]]
*[[唐山地震]]

== 外部リンク ==
* 荒井健一「[http://allabout.co.jp/gm/gc/71643/ 【地震予知】地震の予知は成功していた! ]」[[All About]]防災、2003年10月15日付
* 長尾年恭「地震活動を予測する -地震予知研究最前線- [http://jishin-info.jp/column-02/column-02g.shtml 第7回 中国の地震予知 -世界で初の予知成功例-]」、仙台放送『大地震に備える』
* 谌旭彬「[http://view.news.qq.com/zt2013/hcts/index.htm 海城地震世界首次成功预报真相]」{{Zh icon}}(世界初の成功した地震予知、海城地震の真相)、[[テンセント|腾讯]]网 今日话题历史版、2013年4月26日付


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2013年10月16日 (水) 08:31時点における版

海城地震
海城地震の位置(中華人民共和国内)
海城地震
本震
発生日 1975年2月4日
座標 遼寧省海城市、営口市付近
震源の深さ 16km-21 km
規模    モーメントマグニチュード(Mw)7.0 [1]
津波 なし
被害
死傷者数 死者 1328人
重傷 4292人
被害地域 中華人民共和国の旗 中国
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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海城地震(かいじょうじしん)は、中華人民共和国遼寧省海城市一帯で1975年2月4日19時36分(中国標準時, UTC+8)に発生したマグニチュード(Ms)7.3の地震である。行政当局が事前に警報を出して住民を避難させており、避難が行われた地域では人的被害が軽微で済んだため、結果的に地震予知の数少ない成功例となったことで著名である。

地震の状況

マグニチュードは、表面波マグニチュードで(Ms)7.3、モーメントマグニチュードで(Mw)7.0であり、記録が残る遼寧省の地震の中では最大規模とされている。震央は海城県(当時、現在は海城市)の中心部から南東20km付近にある村"岔溝鎮"付近、震源の深さは12kmであった。震度(中国では地震烈度)分布を見ると、震央付近の幅20-30km・面積にして約760km³の範囲でこの地震最大となる烈度IX(9, 気象庁震度階級で震度6相当)となっているほか、海城県中心部付近で烈度VIII(8, 震度5相当)、鞍山市中心部付近や営口市中心部付近で烈度VII(7, 震度4-5相当)などとなっている。アメリカ地質調査所(USGS)によれば韓国ソウルでも若干の被害があったことが報告されているほか、ソビエト連邦の沿海地方でも揺れを感じた[2]。また日本の気象庁によれば、九州地方でも有感となり佐賀市で震度2、大分市熊本市で震度1を観測している[3]

被害

震央付近は丘陵地帯であり、丘陵地帯の北限をなぞるように南西-北東方向に鉄道(哈大線)が横断している。この鉄道の北側の遼河平原では液状化地滑りなどが目立った一方、南側では激しい地震動による被害が目立ったという。遼寧省南部では被害地震の記録が少なかったため、耐震性の低いレンガ造の建物が多く、そのような建物が多数損壊した。一方鉄筋コンクリート造の建物では、軽微な被害はあったものの致命的な損壊は免れたものが多かった。海城県では、住宅のうち46%が建て替えが必要なほど甚大な被害、32%が大規模な修理を要する被害を受けるなどほとんどの建物が被害を受けた。同じく営口市でも、13%が建て替え、26%が大規模修理となっている。また火力発電所や送電網が被害を受けて大規模な停電が発生し、断水も発生した[4]

人的被害の正確な数は不明である[4]が、新華社の報道では、死者は被災地の人口の0.02%にあたる2,041人で、その多くが高齢者や子供などの弱者であったほか、被害額は約810億元であったという[5]。一方、死者1,328人、重傷者4,292人という資料もある[6]

予知

まず背景として、地震活動などを根拠に遼寧省南部の地震監視体制が強化されていたことが挙げられる。1960年頃より、1966年邢台地震や1969年渤海地震などの被害地震を含め、河北省から遼寧省にかけての地域で地震活動が活発化していた。活動を監視していた当局は、地震活動が北東方向に移動していく傾向があったことなどから、1970年に遼寧省南部の監視体制を強化し、遼寧省政府に地震弁公室(後の遼寧省地震局)を設置した[7]

この体制下、数か月前という早期から複数の種類の前兆が出現し、それが予知へとつながった。1974年、地殻変動や地震活動、地磁気の異常などをもとに国家地震局は「渤海北部地区でかなり大きな地震が1-2年以内に起こる可能性がある」として、耐震化の方法や防災の心得、前兆の解説など地震防災教育を強化している。同年11月、国家地震局は大連市の金州断層で測量や地震活動、地磁気などの前兆が活発化している事を確認する。これを受けて12月20日、遼寧省革命委員会は市民に地震の可能性が高まっている旨を初めて市民に公表する。このころから、冬眠中のヘビが巣穴から出てきて凍死したり、大群で現れたネズミが人を警戒せず手で捕まえられるほどだったりと、宏観異常現象が多数報告されるようになる。年末には、いくつかの地域で"臨震警報"(地震発生数日前の直前予報)が出された。12月28日には盤山県内で臨震警報が出され2-3万人が屋外のテントに避難し3日間過ごしたものの、地震は発生しなかった[7]

翌1975年1月中旬、国家地震局は、営口から金州にかけての地域を震源地域とし、1975年前半にM6クラスの地震の発生が想定されることを確認した。これを受けて、ダム鉄道電力などのインフラの安全対策が強化され、鉱山工場、人口密集地など一部で防災訓練も行われた。2月1日には、営口県と海城県の県境付近で微小地震が発生し始める(後に直接的な前震の開始であることが分かる)。2月2日には、盤綿市で家畜のブタがお互いにしっぽを噛んだり餌を食べなくなったり、垣根や塀をよじ登ったりする現象や、地電位の異常があったことが報告される。2月3日には、微小地震が1時間に20回程度に急増し、地電位がパルス状変化を起こしてしばしば観測不能になる現象や、営口県で家畜のウシがけんかして地面を掻くなどの現象があったことが報告される[7]

前震をはじめとした前兆の顕著な変化を受けて、日付が変わった翌2月4日0時30分頃、遼寧省地震弁公室は同省革命委員会に、微小地震の後に大きな地震が発生する可能性がある旨を報告、革命委員会はその日の朝10時に遼寧省全域に臨震警報を発表する。これを受けて各地区では、屋外の広場にテントを設営して住民の避難を促すなど緊急措置を実施する。この間にも顕著な前兆がいくつか報告されている。丁家溝という町では、手押しポンプ式井戸の水が8時頃から勝手に溢れ出し、次第に勢いを増して正午ごろには噴き上げる水の高さが1mに達した後、午後は濁ったままの状態が続いた。この町では午後にアヒルが驚いて跳び上がったという報告もある。革安山という町では梅花シカが驚いて小屋の中で跳び上がり、走り出して押し合いながら逃走したという。1日から続いていた微小地震活動は、午前中にM4.7およびM4.2という大きめの地震を記録した後急激に減少し、午後には静穏化してしまった[7][注 1][8]

臨震警報を受けて行われた緊急的な避難は、1説によると約100万人が対象となったといい[9]、大規模なものであった。例えば、避難を促すため営口県の官屯鎮石硼峪村では地震大隊が住民を広場に集めて映画の上映を行った。夕方に1本目の上映が開始され、2本目の映画の上映が始まった19時36分、Ms7.3の本震が発生した[7]。この村では家屋の9割が倒壊したが、死者は3人にとどまった。3人の死者は、いったん避難したものの家に戻ってしまった家族だったという。また、丁家溝では8割の家が倒壊し、段々畑や溜め池が崩れたりしたが、死者はいなかった[10]

この事例が世界に伝えられた際には、衝撃的な地震予知の成功事例として受け止められたという[11]

予知の背景

力武常次によれば、海城地震の地震予知成功の背景には、長期予測により数年前から観測や準備が強化されていたことや、宏観異常現象を含めて前兆が数か月前と早期から発生していたことに加えて、はっきりとした前震が現れたこと、中国の政治体制のおかげで前兆の観測や報告が組織的に大規模に行われ、情報統制や避難が計画的に行われたことが挙げられる。力武は現地で担当者と意見交換を行ったが、地震の発生地域を特定するための根拠や法則が明確ではなかったといい、日本など諸外国にも適用できるような手法とは考えづらいとしている[7]

また、1年半後にこの地震の震源から約200km離れた唐山市付近を震源として発生した唐山地震では、臨震警報は出されず、20万人を超える犠牲者が出ることととなった。唐山地震では、水準測量やラドン濃度などの前兆はあったものの、その分布が不規則で震源域の特定に至らなかったことや、前震がなかったことが予知できなかった原因とされている[7][12]

石川有三によると、1970年代にはこうした予知活動が盛んで、特にボランティア的な無償のものが多かった。海城地震の前、1973年に四川省馬辺イ族自治県で起きたM5.8の地震(四川馬辺地震)でも、直前に警報が出されて避難が行われたという。なお、改革開放による1990年代の市場経済化や財政改革により、以降はボランティアは大きく減少し公的機関による観測に移行している[11]

脚注

注釈

  1. ^ これらの他に、「ニワトリが群れで空を飛んでいた」などの報告例もあるが、信憑性には疑問が残る。

出典

  1. ^ Historic EarthquakesHaicheng, China 1975 February 04 11:36 UTC (local time 07:36 p.m.) Magnitude 7.0” (英語). USGS. 2011年8月18日閲覧。
  2. ^ Haicheng, China 1975 February 04 11:36 UTC (local time 07:36 p.m.) Magnitude 7.0」、アメリカ地質調査所(USGS)『Historic Earthquakes』、2013年10月10日閲覧
  3. ^ 「有感地震検索 1975/02/04 20:00 - 1975/02/04 21:00」、気象庁『震度データベース検索』、2013年10月10日閲覧
  4. ^ a b 田村重四郎 ほか「海城・唐山地震の被害と中国の耐震研究 (PDF) 」、東京大学生産技術研究所『生産研究』、34巻1号, 10-24頁、1982年1月、2013年10月10日閲覧 NAID 120002561353
  5. ^ 海城地震预报:难以传承的“经验”」中国新闻网(腾讯)、2013年3月26日付、2013年10月10日閲覧
  6. ^ 【今日は何の日】1975年:海城地震の予知に成功サーチナ、2013年10月10日閲覧
  7. ^ a b c d e f g 力武、2001年、§8-1(325-327頁)
  8. ^ 「消防雑学辞典 57.地震と鯰東京消防庁、2013年10月10日閲覧
  9. ^ 細野透 「風水で地震を予知できるか日経BP SAFETY JAPAN、『「危ない建築」と「安全な建築」の境目を分けるもの 来るべき「震度7」に備える』第25回、2007年9月12日付、2013年10月10日閲覧
  10. ^ 尾池、1978年
  11. ^ a b 石川有三「中国の地震 (PDF) 」、地震予知総合研究振興会『地震ジャーナル』46号、2008年、20-28頁、2013年10月10日閲覧 NAID 120002561353
  12. ^ 力武、2001年、328-329頁

参考文献

  • 力武常次『地震予知 発展と展望』日本専門図書出版、2001年。ISBN 4-931507-01-8 
  • 尾池和夫『中国の地震予知』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、1978年12月20日。ISBN 978-4140013335 京都大学学術情報リポジトリの収蔵リンク:[1]) - 脚注引用部分以外にも、当時の状況や地震予知の展望について、予知に対して楽観的な観点から詳しく解説されている。

関連項目

外部リンク