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{{基礎情報 君主
[[ファイル:Orhan - Manyal Palace Museum.JPG|thumb|オルハン]]
[[ファイル:Orhan I.jpg|thumb|オルハン]]
| 人名 = オルハン
| 各国語表記 = اورخان غازی
'''オルハン'''([[1284年]] - [[1359年]]?)は、[[オスマン帝国]]の第2代[[オスマン帝国の君主|皇帝]](在位: [[1326年]] - 1359年?)。初代皇帝・[[オスマン1世]]の子。
| 君主号 =
| 画像 = Orhan Gazi.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = オルハン
| 在位 = [[1324年]]もしくは[[1326年]] - [[1359年]]から[[1362年]]の間
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 全名 =
| 出生日 = [[1281年]]もしくは[[1288年]]
| 生地 =
| 死亡日 = [[1359年]]から[[1362年]]の間
| 没地 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = ブルサ
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = ニールーフェル・ハトゥン<ref>バットゥータ『大旅行記』3巻([[家島彦一]]訳注)、313,385-386頁</ref><ref group="notes">ニールーフェル・ハトゥンは「ホロフィラ」の名でも知られる。(永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、53頁)</ref>
| 配偶者2 = テオドラ
| 子女 = スレイマン<br>[[ムラト1世]]<br>ハリル<br>等
| 王家 = [[オスマン家]]
| 王朝 = [[オスマン帝国|オスマン朝]]
| 父親 = [[オスマン1世]]
| 母親 = マル・ハトゥン
| 宗教 =
| サイン = Tughra of Orhan.JPG
}}


[[1326年]]、父の死により帝位を継いで即位する。即位後は父の勢力拡大政策を受け継いで同年のうちに[[ブルサ]]を征服し、同地をオスマンの首都と定めた。さらに宰相・[[チャンダルル・カラ・ハリル]]の助力を得て<!--[[イェニチェリ]]軍団を創設し、その精鋭をもって-->[[東ローマ帝国]]に侵攻した。東ローマ帝国ではこの頃、帝位をめぐる内紛が続いており、オルハンはその一方である[[ヨハネス6世カンタクゼノス]]に味方し、彼の登極を助けた。オルハンはその返礼としてカンタクゼノスの娘テオドラを妻に迎えている。また、この内乱の中でカンタクゼノスの敵を支援した[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]を打ち破った事は、後の[[バルカン半島]]への急速な拡大の伏線ともなった。なお、バルカンでのこうした作戦に於いては彼自身よりも長子のスレイマンの活躍が大きく、[[1354年]]に半島の入り口となる[[ダーダネルス海峡]]沿いのカリポリス(現[[ゲリボル]])を占領したのもスレイマンである。


'''オルハン'''([[1281年]]もしくは[[1288年]]<ref name="jiten">三橋「オルハン」『アジア歴史事典』2巻</ref><ref group="notes">『岩波西洋人名辞典 増補版』(岩波書店, 1981年12月)によれば、1284年もしくは1279年生</ref> - [[1359年]]から[[1362年]]の間)は、[[オスマン帝国]]の第2代[[オスマン帝国の君主|皇帝]](在位: [[1324年]]もしくは[[1326年]] - [[1359年]]から[[1362年]]の間)。初代皇帝[[オスマン1世]]の子。オルハンの時代のオスマン帝国は、遊牧と略奪によるガーズィー<ref group="notes">「ガーズィー」とは、イスラーム世界の辺境を守り、異教徒との戦争に従事する「信仰の戦士」という意味である。(小山皓一郎「ガージー」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月))</ref>集団から君侯([[ベイリク]])国家への転換期であったといえ<ref name="kre30">U.クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、30頁</ref>、実質的な建国者と評価される事も多い<ref>三橋「オルハン」『アジア歴史事典』2巻 林『オスマン帝国500年の平和』、46頁</ref>
また、オルハンは内政においてもイスラム法官の制度を整備し、さらに[[マドラサ|メドレセ]]([[大学]])を創設して教育制度を確立するなど、国家体制の整備に努めた。オスマン帝国が独自の貨幣である[[アクチェ]]銀貨を初めて鋳造したのもこの時代であり、オルハンの時代はガーズィー(戦士)集団から国家への過渡期の時期であったといえる。<!--また、イェニチェリ制度を見てもわかるように、たとえ[[奴隷]]であっても有能であれば登用するなどの優れた一面も見せた。-->


== 生涯 ==
オルハンの没年は諸説あり、1359年説が有力だが、[[1362年]]に死去したという説もある。有能な将軍で後継者と目されていた長子スレイマンは父よりも先に事故死し(東ローマ分遣隊と遭遇して戦死したという異説もある)、皇帝の地位は次子[[ムラト1世]]が継いだ。
[[Image:Orhan I area map.png|left|thumb|180px|オルハンの治世初期(1326年)と治世末期(1361年)のオスマン帝国の勢力圏の比較図]]
=== 即位、ブルサの征服 ===
1317年より父オスマンから軍の指揮権を委ねられ<ref>R.マントラン『改訳 トルコ史』、41頁</ref>、オスマン1世が行った[[ブルサ]]包囲にあたっての障害となる拠点を制圧、オルハネリ(位置については[[ブルサ県]]、[[:en:Orhaneli]]を参照)の城砦を破壊した。即位年については1326年と1324年の二説が有力であり、即位時期もオスマン死後に帝位を継いだ説のほか、オスマンの存命中にすでに即位していたとする説も存在する<ref name="kre30"/>。オスマンが率いていた集団は数百人規模の戦士集団で、その指導者はあくまでも仲間内の第一人者という立場であり、指導者の選出には同朋である戦士たちの推戴が必要とされていた<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、34頁</ref>。オルハンは父の僚友たちの推戴によって即位し、父の遺志であるブルサ攻略を継続した。


1326年[[4月6日]]にブルサの支配者テクフルを降して同地を征服、首都に定めてオスマン1世を埋葬した。遷都後は配下を[[コジャエリ県|コジャエリ]]方面に派兵、[[1331年]][[3月2日]]にニカイア(現在の[[イズニク]])、[[1337年]]にニコメディアを征服して勢力を拡大する。[[1329年]]にオスマンのニカイア包囲を解くため、[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)より2000の正規兵が派遣されるが<ref name="shoju813">尚樹『ビザンツ帝国史』、813頁</ref>、ペレカノスの戦いで皇帝[[アンドロニコス3世パレオロゴス]]率いる東ローマ軍を撃破し、この勝利はオスマン1世から継承した軍団を辺境の軍事集団から一侯国に飛躍させるきっかけとなった<ref name="hayasi46">林『オスマン帝国500年の平和』、46頁</ref>。ニカイアの攻撃は苛烈なものであり、ニカイア攻略直後にオルハンと面会した[[イブン・バットゥータ]]は『[[旅行記 (イブン・バットゥータ)|大旅行記]]』で街が荒廃し、人口が流出して減少した様子を伝えた<ref>バットゥータ『大旅行記』3巻([[家島彦一]]訳注)、313,385頁</ref>。ニカイアの施設でかろうじて破壊を免れた二重の城壁は、往時の姿を今に留めている。
== 家族 ==
息子、娘共に多数生まれている。


[[1335年]]から[[1345年]]の間に[[バルケスィル県|バルケスィル]]の[[カレスィ侯国]]を併合<ref name="jiten"/>、カレスィ君侯アジランの死後に起きた二人の王子の争いに干渉した結果と言われる<ref>三橋『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』、97頁 R.マントラン『改訳 トルコ史』、42頁 N.アクシト『トルコ 2』、55頁 林『オスマン帝国500年の平和』、46頁</ref>この併合によって軽装艦船を有するカレスィの海軍<ref name="shoju813"/>をそのまま手に入れ、[[バルカン半島]]進出の手段を獲得した。
*スレイマン
*[[ムラト1世]]
*ハリル


=== バルカン半島への進出 ===
このようにオスマン帝国と東ローマ帝国の間には軍事衝突が頻繁に起きていたが、当時東ローマ帝国はオスマン帝国よりも[[サルハン侯国]]、[[アイドゥン侯国]]を危険視しており<ref>R.マントラン『改訳 トルコ史』、42頁</ref>、やがて両国の間に同盟関係が生まれる。オルハンと東ローマ皇帝アンドロニコス3世が初めて対面したのは[[1333年]]のニコメディア包囲中と言われ、カレスィ侯国を牽制するために両国は同盟した。アンドロニコス3世没後の東ローマ帝国では[[ヨハネス5世パレオロゴス]]と[[ヨハネス6世カンタクゼノス]]の間で帝位をめぐる内紛が起こり、二国間の同盟はより重要性を増した。ヨハネス5世とヨハネス6世はいずれもアナトリア半島のベイリク国家と同盟を結び、オルハンはその一方であるヨハネス6世に味方して彼の登極を助けた。オルハンは1346年にヨハネス6世の娘テオドラを妻に迎え<ref group="notes">ヨハネス6世は別の同盟者であるアイドゥン侯国のウムルにも娘を嫁がせた。(林『オスマン帝国500年の平和』、54頁)</ref>、ヨハネス6世に敵対するヨハネス5世および[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]を攻撃するため、6000の兵士<ref>尚樹『ビザンツ帝国史』、830頁</ref>をバルカン半島に派遣、1337年にオスマン軍は初めてヨーロッパに渡り[[トラキア]]で略奪を行った<ref>尚樹『ビザンツ帝国史』、814頁</ref><ref group="notes">R.マントラン『改訳 トルコ史』、42頁によれば1346年。</ref>。


バルカン半島での軍事作戦においては長子のスレイマンの活躍が大きく、セルビア王[[ウロシュ4世]]による[[テッサロニキ|サロニカ]]攻撃の阻止、チョルル(位置については[[テキルダー県]]を参照)の制圧は、いずれもスレイマンの軍功である。[[1352年]]から[[1353年]]の間に、ヨハネス6世への援助と引き換えにオルハンはカリポリス(現在の[[ゲリボル]])付近のチンペ(ヅィペス)城砦を獲得<ref>N.アクシト『トルコ 2』、54頁</ref>、[[1354年]][[3月2日]]<ref name="shoju840">尚樹『ビザンツ帝国史』、840頁</ref>にカリポリス一帯は大地震に見舞われ、カリポリスの街と城壁も被害を被ると、スレイマンはこの地震に乗じてカリポリスとテキルダー、ボラユル、[[マルカラ]]([[:en:Malkara]])などの[[マルマラ海]]沿いの地域を占領した。ヨハネス6世はオスマン帝国が占領した都市の返還を両国の友好関係に訴え、また見返りとして大金の支払いを提案したが<ref name="shoju840"/>オルハンは要求に応じず、バルカン半島の入り口となる拠点を手放そうとはしなかった。一連のバルカン半島へのオスマンの進出は「蛮族の入寇」とは全く異質のものであり<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、73頁</ref>、こうしたオスマン側の動向を受けて、ヨハネス6世はオルハンの子ハリルに娘を嫁がせ、オスマン帝国との関係強化を図った。
{{先代次代|[[オスマン帝国の君主|オスマン帝国の皇帝]]|第2代: 1326 - 1359?|[[オスマン1世]]|[[ムラト1世]]}}

=== 晩年 ===
オルハンの没年については諸説あり、1359年から[[1362年]]の間と推定されている。有能な将軍で後継者と目されていた長子スレイマンは鷹狩りの最中の事故によって、父よりも先に没しており<ref>三橋『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』(紀伊国屋新書)、99頁 N.アクシト『トルコ 2』、56頁 U.クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、41頁</ref>、バルカン半島方面におけるオスマン帝国の軍事活動は一時的に停滞した<ref name="horupu56">N.アクシト『トルコ 2』、56頁</ref>。おそらくは彼の死後に後継者争いが起き<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、56頁</ref>、継承戦に勝利した次子の[[ムラト1世|ムラト]]が帝位を継いだ。

== 内政 ==
[[Image:Sueleymanname akinci.png|thumb|200px|非正規の騎兵アクンジュ(『スレイマン・ナーメ』より)]]
=== 軍事集団から国家への脱皮 ===
オルハンの治世にオスマン帝国は支配領域を広げるが、支配下に入れた地域に暮らす定住民、都市を往来する商人や旅人といった、これまでオスマンが率いていた遊牧民とガーズィーとは異質の人々を統治する政治機構を整備する必要に迫られる<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、36-37頁</ref>。オルハンは統治体制の確立において、ブルサの東ローマ帝国の行政機構と行政官を受け継ぎ、後のオスマン帝国が規範とする制度を構築した<ref name="kre30"/>。体制の確立においては東ローマの人材以外に、外部から招かれたイスラム法学者([[ウラマー]])、[[カラマン侯国]]、[[イルハン朝]]といった周辺のイスラム国家から流入した書記の力も欠かせなかった<ref name="shoju818">尚樹『ビザンツ帝国史』、818頁</ref>。

招聘されたウラマーたちはイスラム法官([[カーディー]])として、国家統治において直面する民政と裁判の問題をイスラム法([[シャリーア]])に依って解決した<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、37-38頁 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、50頁</ref>。また、彼らウラマーはシャリーア以外に文章の読解、イスラムの先進国家の知識も持ち合わせており、行政分野においても重宝された<ref name="suzuki40">鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、40頁</ref>。オルハンはウラマーを自国でも養成するべく、1331年にイズニクにオスマン帝国最初の[[マドラサ|メドレセ]]([[大学]])を創設した<ref name="suzuki40"/>。

法官の整備と共に君主を補佐する役職が設置され、行政を統括する宰相に外来のウラマーであるアラエッディン・パシャを<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、41頁</ref><ref group="notes">[[15世紀]]末の歴史家アシュク・パシャ・ザーデの[[年代記]]『オスマン王家の歴史』には、オスマン1世の死後にオルハンとアラエッディンの兄弟が互いに帝位を譲り合い、最終的に帝位を継いだオルハンの要請でアラエッディンが補佐役に付く逸話が記され、アシュク・パシャ・ザーデはこれをもって宰相の誕生としている。(鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、41頁)<!-- かつては宰相のアラエッディンをオルハンの兄弟とみなす意見も存在したが(三橋『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』96頁 R.マントラン『改訳 トルコ史』、41頁)、今日ではオルハンの兄弟であるアラエッディンと宰相のアラエッディンは同名の別人と判明している(鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、41頁)。 --></ref>、軍事を統括するベイレルベイ(司令官)に長子のスレイマンを任命した。

=== 軍制改革の試み ===
オルハンの時代に、オスマン軍の軍服にはジハードの戦士の衣服を元にした、民族的な帽子が取り入れられる<ref name="shoju818"/>。

当時のオスマン軍の兵力は[[テュルク系民族|トルコ系]]、[[モンゴル|モンゴル系]]の遊牧民、神秘主義([[スーフィズム]])を信奉する修道士、キリスト教徒であるエヴレノス家にミハル家などで構成される雑多な集団であった<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、46-47頁</ref>。こうした自主性の強いオスマン軍への統制を強化し<ref>鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、43頁</ref>、より効率のいい軍事活動を展開するために<ref name="mitsuhashi96">三橋『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』(紀伊国屋新書)、96頁</ref>、従来の遊牧民を中心とする軍団から君主直属の[[常備軍]]への再編成が行われた。トルコ系の民族から徴募した歩兵(ヤヤ)と騎兵(ミュセッレム<ref group="notes">R.マントランによれば、オルハン時代の騎兵はシパーヒー、シリフダル、ウルフェジ、グレバで構成された。(R.マントラン『改訳 トルコ史』、43頁)</ref>)に軍団を再編成し、2つの軍隊に編入された彼らは軍役中は給与を現金で受け取り、平時は税を課されず農業に従事していた<ref name="suzuki44">鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、44頁</ref><ref group="notes">尚樹啓太郎によれば、歩兵は移民、騎兵は古参の将兵より選抜された。(尚樹『ビザンツ帝国史』、818頁)</ref>。しかし、常備軍の編成は満足な結果を残さず、どちらも補助軍の一部に格下げされ、常備軍制定の実現は奴隷軍人からなる[[イェニチェリ]]が創設されるムラト1世の治世を待たなければならない<ref name="suzuki44"/><ref group="notes">イェニチェリが創設された年代に定説は無いが、次代のムラト1世の治世と推定する研究者が多い。しかし、R.マントランのように、オルハンの治世にイェニチェリが創設されたとする研究者も存在する。(R.マントラン『改訳 トルコ史』、43頁)</ref>。

他方、同時代に編成された非正規の騎兵(アクンジュ)<ref name="rob43">R.マントラン『改訳 トルコ史』、43頁</ref>は、バルカン半島での勢力拡大に大いに貢献した。彼らは給料が支払われない代わりに略奪品を獲得する権利を持ち、バルカン半島の国境地帯に配属された。機動力に優れるアクンジュが敵国に侵入を繰り返した後に本隊が攻め込む戦法は、バルカン半島での領土拡大に有効であった<ref>林『オスマン帝国の時代』、12頁</ref>。

[[オーストリア]]の歴史家パウル・ヴィテックはこうしたオスマン帝国の軍事組織の発展より、非イスラム世界の征服を目的とする、宗教的かつ戦士的なガーズィー精神の影響を指摘した<ref name="rob43"/>。

=== アクチェ銀貨 ===
[[ヒジュラ暦]]727年(1326年 - 1327年)<ref>林『オスマン帝国500年の平和』、45-46頁</ref>にオスマン帝国独自の貨幣である[[アクチェ]]銀貨(「アクチェ」とは「小さく白い」という意味である)が初めて鋳造された。この硬貨は東ローマ帝国、[[トレビゾンド帝国]]で鋳造された硬貨を参考にしており<ref name="mitsuhashi96-97">三橋『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』(紀伊国屋新書)、96-97頁</ref>、硬貨には「''アッラーよ オスマンの子オルハンの国を永遠たらしめ給え''」(N.アクシト『トルコ 2』([[永田雄三]]編訳, 世界の教科書=歴史, [[ほるぷ出版]], 1981年11月)、56頁より引用)という言葉が刻まれていた。このアクチェ銀貨は、[[17世紀]]に至るまでオスマン帝国の通貨の基本単位として長く用いられた<ref name="mitsuhashi96-97"/>。

=== ブルサの統治 ===
オルハンが獲得したブルサはアナトリアにおける商業の一大拠点として発展する。ジェノヴァ、ヴェネツィアの商人の中には、イランから流れてきた絹製品と自国の毛織物を交換するためにブルサを訪れる者もいた<ref>永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、49頁</ref>。1330年代にブルサの聖エリアス教会をモスクに改修し<ref>バットゥータ『大旅行記』3巻([[家島彦一]]訳注)、384頁</ref>、父オスマンをモスクの墓に埋葬した。モスクは火災や地震によって何度も損壊するが、その度に修復、再建されて現在もブルサの中心地に姿を留めている。

== 人物 ==
[[Image:Bursa 7089.jpg|thumb|150px|ブルサのオルハンの墓]]
=== 性格 ===
[[トルコ|トルコ共和国]]の国定教科書では、彼の誠実な人格と信仰心が称賛されている<ref name="horupu56"/>。彼の性格を表すエピソードとして、攻略直後のイズニクにモスク、マドラサと共に建てた救貧院の開設式の折には自らスープを配り、夜には付木を焚いた話が紹介されている。

また、イブン・バットゥータの『大旅行記』には、オルハンが首都に1か月も留まることなく国内を見回り、時には異教徒と戦ったという伝聞が記されている<ref>バットゥータ『大旅行記』3巻([[家島彦一]]訳注)、312頁</ref>。<!--また、イェニチェリ制度を見てもわかるように、たとえ[[奴隷]]であっても有能であれば登用するなどの優れた一面も見せた。-->

== 脚注 ==
[[Image:Bursa 7049.jpg|thumb|200px|オルハンがブルサに建立したモスク]]
=== 注釈 ===
<references group="notes"/>
=== 引用元 ===
<references/>

== 参考文献 ==
* [[三橋富治男]]『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』(紀伊国屋新書, [[紀伊国屋書店]], 1962年)
* N.アクシト『トルコ 2』([[永田雄三]]編訳, 世界の教科書=歴史, [[ほるぷ出版]], 1981年11月)
* ロベール・マントラン『改訳 トルコ史』([[小山皓一郎]]訳, 文庫クセジュ, [[白水社]], 1982年7月)
* [[鈴木董]]『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』([[講談社現代新書]], [[講談社]], 1992年4月)
* [[林佳世子]]『オスマン帝国の時代』(世界史リブレット, 山川出版社, 1997年11月)
* [[永田雄三]]、[[羽田正]]『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15, [[中央公論社]], 1998年1月)
* [[イブン・バットゥータ]]『大旅行記』3巻([[家島彦一]]訳注,[[東洋文庫 (平凡社)]], 平凡社, 1998年3月)
* ウルリッヒ・クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』(戸叶勝也訳, [[アリアドネ企画]], 1998年6月)
* [[尚樹啓太郎]]『ビザンツ帝国史』([[東海大学出版会]], 1999年2月)
* 林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史10, 講談社, 2008年10月)
* 三橋富治男「オルハン」『アジア歴史事典』2巻収録([[平凡社]], 1959年)

==関連項目==
{{commons|Orhan I}}
* [[オスマン帝国]]
* [[オスマン帝国の君主]]

{{先代次代|[[オスマン帝国の君主|オスマン帝国の皇帝]]|第2代: 1324 もしくは 1326 - 1359から1362|[[オスマン1世]]|[[ムラト1世]]}}


[[Category:オスマン帝国の君主|おるはん]]
[[Category:オスマン帝国の君主|おるはん]]
[[Category:1284年生|おるはん]]
[[Category:1320生|おるはん]]
[[Category:1359年没|おるはん]]
[[Category:1359年没|おるはん]]
[[Category:1360年代没|おるはん]]


[[af:Orhan]]
[[af:Orhan]]

2011年9月10日 (土) 14:19時点における版

オルハン
اورخان غازی
オルハン
在位 1324年もしくは1326年 - 1359年から1362年の間

出生 1281年もしくは1288年
死去 1359年から1362年の間
埋葬 ブルサ
配偶者 ニールーフェル・ハトゥン[1][notes 1]
  テオドラ
子女 スレイマン
ムラト1世
ハリル
家名 オスマン家
王朝 オスマン朝
父親 オスマン1世
母親 マル・ハトゥン
サイン
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オルハン1281年もしくは1288年[2][notes 2] - 1359年から1362年の間)は、オスマン帝国の第2代皇帝(在位: 1324年もしくは1326年 - 1359年から1362年の間)。初代皇帝オスマン1世の子。オルハンの時代のオスマン帝国は、遊牧と略奪によるガーズィー[notes 3]集団から君侯(ベイリク)国家への転換期であったといえ[3]、実質的な建国者と評価される事も多い[4]

生涯

オルハンの治世初期(1326年)と治世末期(1361年)のオスマン帝国の勢力圏の比較図

即位、ブルサの征服

1317年より父オスマンから軍の指揮権を委ねられ[5]、オスマン1世が行ったブルサ包囲にあたっての障害となる拠点を制圧、オルハネリ(位置についてはブルサ県en:Orhaneliを参照)の城砦を破壊した。即位年については1326年と1324年の二説が有力であり、即位時期もオスマン死後に帝位を継いだ説のほか、オスマンの存命中にすでに即位していたとする説も存在する[3]。オスマンが率いていた集団は数百人規模の戦士集団で、その指導者はあくまでも仲間内の第一人者という立場であり、指導者の選出には同朋である戦士たちの推戴が必要とされていた[6]。オルハンは父の僚友たちの推戴によって即位し、父の遺志であるブルサ攻略を継続した。

1326年4月6日にブルサの支配者テクフルを降して同地を征服、首都に定めてオスマン1世を埋葬した。遷都後は配下をコジャエリ方面に派兵、1331年3月2日にニカイア(現在のイズニク)、1337年にニコメディアを征服して勢力を拡大する。1329年にオスマンのニカイア包囲を解くため、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)より2000の正規兵が派遣されるが[7]、ペレカノスの戦いで皇帝アンドロニコス3世パレオロゴス率いる東ローマ軍を撃破し、この勝利はオスマン1世から継承した軍団を辺境の軍事集団から一侯国に飛躍させるきっかけとなった[8]。ニカイアの攻撃は苛烈なものであり、ニカイア攻略直後にオルハンと面会したイブン・バットゥータは『大旅行記』で街が荒廃し、人口が流出して減少した様子を伝えた[9]。ニカイアの施設でかろうじて破壊を免れた二重の城壁は、往時の姿を今に留めている。

1335年から1345年の間にバルケスィルカレスィ侯国を併合[2]、カレスィ君侯アジランの死後に起きた二人の王子の争いに干渉した結果と言われる[10]この併合によって軽装艦船を有するカレスィの海軍[7]をそのまま手に入れ、バルカン半島進出の手段を獲得した。

バルカン半島への進出

このようにオスマン帝国と東ローマ帝国の間には軍事衝突が頻繁に起きていたが、当時東ローマ帝国はオスマン帝国よりもサルハン侯国アイドゥン侯国を危険視しており[11]、やがて両国の間に同盟関係が生まれる。オルハンと東ローマ皇帝アンドロニコス3世が初めて対面したのは1333年のニコメディア包囲中と言われ、カレスィ侯国を牽制するために両国は同盟した。アンドロニコス3世没後の東ローマ帝国ではヨハネス5世パレオロゴスヨハネス6世カンタクゼノスの間で帝位をめぐる内紛が起こり、二国間の同盟はより重要性を増した。ヨハネス5世とヨハネス6世はいずれもアナトリア半島のベイリク国家と同盟を結び、オルハンはその一方であるヨハネス6世に味方して彼の登極を助けた。オルハンは1346年にヨハネス6世の娘テオドラを妻に迎え[notes 4]、ヨハネス6世に敵対するヨハネス5世およびセルビア王国を攻撃するため、6000の兵士[12]をバルカン半島に派遣、1337年にオスマン軍は初めてヨーロッパに渡りトラキアで略奪を行った[13][notes 5]

バルカン半島での軍事作戦においては長子のスレイマンの活躍が大きく、セルビア王ウロシュ4世によるサロニカ攻撃の阻止、チョルル(位置についてはテキルダー県を参照)の制圧は、いずれもスレイマンの軍功である。1352年から1353年の間に、ヨハネス6世への援助と引き換えにオルハンはカリポリス(現在のゲリボル)付近のチンペ(ヅィペス)城砦を獲得[14]1354年3月2日[15]にカリポリス一帯は大地震に見舞われ、カリポリスの街と城壁も被害を被ると、スレイマンはこの地震に乗じてカリポリスとテキルダー、ボラユル、マルカラen:Malkara)などのマルマラ海沿いの地域を占領した。ヨハネス6世はオスマン帝国が占領した都市の返還を両国の友好関係に訴え、また見返りとして大金の支払いを提案したが[15]オルハンは要求に応じず、バルカン半島の入り口となる拠点を手放そうとはしなかった。一連のバルカン半島へのオスマンの進出は「蛮族の入寇」とは全く異質のものであり[16]、こうしたオスマン側の動向を受けて、ヨハネス6世はオルハンの子ハリルに娘を嫁がせ、オスマン帝国との関係強化を図った。

晩年

オルハンの没年については諸説あり、1359年から1362年の間と推定されている。有能な将軍で後継者と目されていた長子スレイマンは鷹狩りの最中の事故によって、父よりも先に没しており[17]、バルカン半島方面におけるオスマン帝国の軍事活動は一時的に停滞した[18]。おそらくは彼の死後に後継者争いが起き[19]、継承戦に勝利した次子のムラトが帝位を継いだ。

内政

非正規の騎兵アクンジュ(『スレイマン・ナーメ』より)

軍事集団から国家への脱皮

オルハンの治世にオスマン帝国は支配領域を広げるが、支配下に入れた地域に暮らす定住民、都市を往来する商人や旅人といった、これまでオスマンが率いていた遊牧民とガーズィーとは異質の人々を統治する政治機構を整備する必要に迫られる[20]。オルハンは統治体制の確立において、ブルサの東ローマ帝国の行政機構と行政官を受け継ぎ、後のオスマン帝国が規範とする制度を構築した[3]。体制の確立においては東ローマの人材以外に、外部から招かれたイスラム法学者(ウラマー)、カラマン侯国イルハン朝といった周辺のイスラム国家から流入した書記の力も欠かせなかった[21]

招聘されたウラマーたちはイスラム法官(カーディー)として、国家統治において直面する民政と裁判の問題をイスラム法(シャリーア)に依って解決した[22]。また、彼らウラマーはシャリーア以外に文章の読解、イスラムの先進国家の知識も持ち合わせており、行政分野においても重宝された[23]。オルハンはウラマーを自国でも養成するべく、1331年にイズニクにオスマン帝国最初のメドレセ大学)を創設した[23]

法官の整備と共に君主を補佐する役職が設置され、行政を統括する宰相に外来のウラマーであるアラエッディン・パシャを[24][notes 6]、軍事を統括するベイレルベイ(司令官)に長子のスレイマンを任命した。

軍制改革の試み

オルハンの時代に、オスマン軍の軍服にはジハードの戦士の衣服を元にした、民族的な帽子が取り入れられる[21]

当時のオスマン軍の兵力はトルコ系モンゴル系の遊牧民、神秘主義(スーフィズム)を信奉する修道士、キリスト教徒であるエヴレノス家にミハル家などで構成される雑多な集団であった[25]。こうした自主性の強いオスマン軍への統制を強化し[26]、より効率のいい軍事活動を展開するために[27]、従来の遊牧民を中心とする軍団から君主直属の常備軍への再編成が行われた。トルコ系の民族から徴募した歩兵(ヤヤ)と騎兵(ミュセッレム[notes 7])に軍団を再編成し、2つの軍隊に編入された彼らは軍役中は給与を現金で受け取り、平時は税を課されず農業に従事していた[28][notes 8]。しかし、常備軍の編成は満足な結果を残さず、どちらも補助軍の一部に格下げされ、常備軍制定の実現は奴隷軍人からなるイェニチェリが創設されるムラト1世の治世を待たなければならない[28][notes 9]

他方、同時代に編成された非正規の騎兵(アクンジュ)[29]は、バルカン半島での勢力拡大に大いに貢献した。彼らは給料が支払われない代わりに略奪品を獲得する権利を持ち、バルカン半島の国境地帯に配属された。機動力に優れるアクンジュが敵国に侵入を繰り返した後に本隊が攻め込む戦法は、バルカン半島での領土拡大に有効であった[30]

オーストリアの歴史家パウル・ヴィテックはこうしたオスマン帝国の軍事組織の発展より、非イスラム世界の征服を目的とする、宗教的かつ戦士的なガーズィー精神の影響を指摘した[29]

アクチェ銀貨

ヒジュラ暦727年(1326年 - 1327年)[31]にオスマン帝国独自の貨幣であるアクチェ銀貨(「アクチェ」とは「小さく白い」という意味である)が初めて鋳造された。この硬貨は東ローマ帝国、トレビゾンド帝国で鋳造された硬貨を参考にしており[32]、硬貨には「アッラーよ オスマンの子オルハンの国を永遠たらしめ給え」(N.アクシト『トルコ 2』(永田雄三編訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1981年11月)、56頁より引用)という言葉が刻まれていた。このアクチェ銀貨は、17世紀に至るまでオスマン帝国の通貨の基本単位として長く用いられた[32]

ブルサの統治

オルハンが獲得したブルサはアナトリアにおける商業の一大拠点として発展する。ジェノヴァ、ヴェネツィアの商人の中には、イランから流れてきた絹製品と自国の毛織物を交換するためにブルサを訪れる者もいた[33]。1330年代にブルサの聖エリアス教会をモスクに改修し[34]、父オスマンをモスクの墓に埋葬した。モスクは火災や地震によって何度も損壊するが、その度に修復、再建されて現在もブルサの中心地に姿を留めている。

人物

ブルサのオルハンの墓

性格

トルコ共和国の国定教科書では、彼の誠実な人格と信仰心が称賛されている[18]。彼の性格を表すエピソードとして、攻略直後のイズニクにモスク、マドラサと共に建てた救貧院の開設式の折には自らスープを配り、夜には付木を焚いた話が紹介されている。

また、イブン・バットゥータの『大旅行記』には、オルハンが首都に1か月も留まることなく国内を見回り、時には異教徒と戦ったという伝聞が記されている[35]

脚注

オルハンがブルサに建立したモスク

注釈

  1. ^ ニールーフェル・ハトゥンは「ホロフィラ」の名でも知られる。(永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、53頁)
  2. ^ 『岩波西洋人名辞典 増補版』(岩波書店, 1981年12月)によれば、1284年もしくは1279年生
  3. ^ 「ガーズィー」とは、イスラーム世界の辺境を守り、異教徒との戦争に従事する「信仰の戦士」という意味である。(小山皓一郎「ガージー」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月))
  4. ^ ヨハネス6世は別の同盟者であるアイドゥン侯国のウムルにも娘を嫁がせた。(林『オスマン帝国500年の平和』、54頁)
  5. ^ R.マントラン『改訳 トルコ史』、42頁によれば1346年。
  6. ^ 15世紀末の歴史家アシュク・パシャ・ザーデの年代記『オスマン王家の歴史』には、オスマン1世の死後にオルハンとアラエッディンの兄弟が互いに帝位を譲り合い、最終的に帝位を継いだオルハンの要請でアラエッディンが補佐役に付く逸話が記され、アシュク・パシャ・ザーデはこれをもって宰相の誕生としている。(鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、41頁)
  7. ^ R.マントランによれば、オルハン時代の騎兵はシパーヒー、シリフダル、ウルフェジ、グレバで構成された。(R.マントラン『改訳 トルコ史』、43頁)
  8. ^ 尚樹啓太郎によれば、歩兵は移民、騎兵は古参の将兵より選抜された。(尚樹『ビザンツ帝国史』、818頁)
  9. ^ イェニチェリが創設された年代に定説は無いが、次代のムラト1世の治世と推定する研究者が多い。しかし、R.マントランのように、オルハンの治世にイェニチェリが創設されたとする研究者も存在する。(R.マントラン『改訳 トルコ史』、43頁)

引用元

  1. ^ バットゥータ『大旅行記』3巻(家島彦一訳注)、313,385-386頁
  2. ^ a b 三橋「オルハン」『アジア歴史事典』2巻
  3. ^ a b c U.クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、30頁
  4. ^ 三橋「オルハン」『アジア歴史事典』2巻 林『オスマン帝国500年の平和』、46頁
  5. ^ R.マントラン『改訳 トルコ史』、41頁
  6. ^ 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、34頁
  7. ^ a b 尚樹『ビザンツ帝国史』、813頁
  8. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、46頁
  9. ^ バットゥータ『大旅行記』3巻(家島彦一訳注)、313,385頁
  10. ^ 三橋『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』、97頁 R.マントラン『改訳 トルコ史』、42頁 N.アクシト『トルコ 2』、55頁 林『オスマン帝国500年の平和』、46頁
  11. ^ R.マントラン『改訳 トルコ史』、42頁
  12. ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、830頁
  13. ^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、814頁
  14. ^ N.アクシト『トルコ 2』、54頁
  15. ^ a b 尚樹『ビザンツ帝国史』、840頁
  16. ^ 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、73頁
  17. ^ 三橋『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』(紀伊国屋新書)、99頁 N.アクシト『トルコ 2』、56頁 U.クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、41頁
  18. ^ a b N.アクシト『トルコ 2』、56頁
  19. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、56頁
  20. ^ 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、36-37頁
  21. ^ a b 尚樹『ビザンツ帝国史』、818頁
  22. ^ 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、37-38頁 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、50頁
  23. ^ a b 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、40頁
  24. ^ 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、41頁
  25. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、46-47頁
  26. ^ 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、43頁
  27. ^ 三橋『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』(紀伊国屋新書)、96頁
  28. ^ a b 鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、44頁
  29. ^ a b R.マントラン『改訳 トルコ史』、43頁
  30. ^ 林『オスマン帝国の時代』、12頁
  31. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』、45-46頁
  32. ^ a b 三橋『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』(紀伊国屋新書)、96-97頁
  33. ^ 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、49頁
  34. ^ バットゥータ『大旅行記』3巻(家島彦一訳注)、384頁
  35. ^ バットゥータ『大旅行記』3巻(家島彦一訳注)、312頁

参考文献

関連項目

先代
オスマン1世
オスマン帝国の皇帝
第2代: 1324 もしくは 1326 - 1359から1362
次代
ムラト1世