法光寺 (大津市)

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法光寺

本堂
所在地 滋賀県大津市苗鹿2-7-11
位置 北緯35度05分7.98秒 東経135度53分11.52秒 / 北緯35.0855500度 東経135.8865333度 / 35.0855500; 135.8865333 (法光寺)座標: 北緯35度05分7.98秒 東経135度53分11.52秒 / 北緯35.0855500度 東経135.8865333度 / 35.0855500; 135.8865333 (法光寺)
山号 光明山
宗派 天台宗
本尊 薬師如来
創建年 貞観5年(863年
開基 最澄?
または小槻今雄
文化財 木造男神・女神坐像、紙本著色法光寺境内絵図(大津市指定文化財)
法人番号 6160005000932 ウィキデータを編集
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山門
寺紋「抱茗荷

法光寺(ほうこうじ)は、滋賀県大津市苗鹿にある天台宗寺院。山号は光明山。本尊薬師如来

歴史[編集]

仁寿元年(851年小槻今雄に対し同寺の建つ滋賀郡雄琴・苗鹿(現滋賀県大津市雄琴・苗鹿)の地が与えられ、同寺は小槻氏氏寺として貞観5年(863年)今雄により創建されたとされる。一説には今雄以前に延暦寺末寺として最澄により開基され、那波加神社別当寺であったとも言われる[1]。この地は小槻氏とつながりが深く、地名の「雄琴」は今雄の名に因むとされる。一帯には氏神として、今雄を祀る雄琴神社や小槻氏祖・於知別命を祀る那波加神社が残り、当寺とは神宮寺鎮守社の関係にある。

中世には法光寺領の雄琴荘・苗鹿荘を巡り小槻氏と妙法院門跡との間で訴訟が起こっている。この際には小槻氏の領となったが、小槻氏が壬生家大宮家に分裂すると両者の間で再び相論となっている。壬生家領となった法光寺領はその後戦国時代六角氏の支配下となり、六角氏は壬生家に80石(実際には50石)を上納することとなった。

境内[編集]

往時には堂舎24宇・支院僧坊30余寺あったと伝えるが、元亀2年(1571年織田信長比叡山焼き討ちの際に焼失し、延享3年(1746年)再興が図られた。現在は数棟の堂宇が残るのみで、本堂は1916年建造。

元慶8年(884年7月7日に没した今雄の墓とされる。元は境内裏山に残る法光寺古墳群 (3円墳から成り中央主墳が今雄の墓とされる) の墳丘上に建っていたとされる[2]。毎年7月7日、今雄忌として供養が行われている。
  • 苗鹿地蔵堂
苗鹿地蔵は最澄が彫ったとされる「坂本六地蔵」の1つで、境内の地蔵堂の中に立つ。街道沿いにあったが当寺内に移転した。移転前、堂前で大名が落馬したという故事から「すべり地蔵」とも呼ばれ、足腰を守ると言われる。

文化財[編集]

大津市指定文化財[編集]

  • 木造男神・女神坐像 2躯(彫刻)
    境内の鎮守社・天神社の神体。いずれも応永3年(1396年)作で、那波加神社の木が用いられている。銘文から男神像が天神像であることがわかるが、女神像の神名は不明。天神が男女一対というのは不自然であり、元は那波加神社の神体として作られたとする説もある[3]。1976年(昭和51年)3月15日指定[4]
  • 紙本著色法光寺境内絵図(歴史資料)
    江戸時代。延享3年の再興時の寺境内を描いたとされ、五重塔・釈迦堂・大堂・桜本多宝院・こもしき元三大師行場といった、現在はない堂宇が見られる。1991年(平成3年)2月1日指定[5]

現地情報[編集]

所在地
交通アクセス
周辺

脚注[編集]

  1. ^ 『滋賀県の地名』法光寺項。
  2. ^ ただし、鎌倉時代の作と見られ年代は合わない(『滋賀県の地名』法光寺項より)。
  3. ^ 『日本の神々』那波加神社項。
  4. ^ 昭和51年3月15日大津市教育委員会告示第1号。
  5. ^ 平成3年2月1日大津市教育委員会告示第1号。

参考文献[編集]

  • 『日本歴史地名大系 滋賀県の地名』(平凡社、1991年、ISBN 4-582-49025-5)大津市 法光寺項・苗鹿庄・雄琴庄項
  • 田中延佳, 田村三郎, 吉田柳二「算博士小槻今雄について (数学史の研究)」『数理解析研究所講究録』第1257巻、京都大学数理解析研究所、2002年4月、181-185頁、CRID 1050282677273315968hdl:2433/41936ISSN 1880-2818 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]