武井龍三

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たけい りゅうぞう
武井 龍三
本名 竹熊 龍藏 (たけくま りゅうぞう)
生年月日 (1905-05-08) 1905年5月8日
没年月日 1964年11月
出生地 日本の旗 日本 熊本県熊本市新馬借町(現在の同県同市中央区新町3丁目)
身長 160.6cm
職業俳優、元映画プロデューサー、元殺陣師
ジャンル 演劇劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1924年 - 1941年
主な作品
奇傑鬼鹿毛 第一篇
剣かたばみ
快人狼 第一篇
刃門
砂絵呪縛
 
受賞
「映画の日」永年勤続功労章(1963年)
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武井 龍三(たけい りゅうぞう、1905年5月8日 - 1964年11月[1])は、日本の元俳優、元映画プロデューサー、元殺陣師である[2][3][4][5][6]武井 竜三と表記されることもある。本名は竹熊 龍藏(たけくま りゅうぞう)[2][3][4][5][6]マキノ・プロダクション高木新平に次ぐ「鳥人スター」として活躍し、後年は市川右太衛門プロダクション松竹下加茂撮影所の名脇役として知られる[2][3]

来歴・人物[編集]

1905年(明治38年)5月8日熊本県熊本市新馬借町(現在の同県同市中央区新町3丁目)に生まれる[2][3][4][5][6]。市内の尋常高等小学校を経て旧制熊本専門学校(旧制熊本薬学専門学校か、現在の熊本大学)に進学するが、後に中退する[2][3][4][5][6]

1924年(大正13年)、満19歳の時にマキノ映画等持院撮影所に入社[2][3]。翌1925年(大正14年)6月、牧野省三東亜キネマから分裂し、新たに創設したマキノ・プロダクション御室撮影所へ移り、同年9月4日に公開された金森萬象監督映画『奇傑鬼鹿毛 第一篇』で早くも主役に抜擢され、同所に在籍していた高木新平に次ぐ鳥人スターとして活躍する[2][3][4][5][6]。また、同作の撮影で武井は京都府宮津市文珠切戸にある智恩寺の山門から飛び降り、下で受け止めるはずのキャンバスから外れて落ちてしまい、気絶したという[2]。以後、同年11月20日に公開された沼田紅緑監督映画『剣かたばみ』をはじめ、多数の作品で主演を務めた[2][3]

1928年(昭和3年)5月、嵐長三郎(後の嵐寛寿郎)、片岡千恵蔵山口俊雄中根龍太郎市川小文治山本礼三郎らと日本活動常設館館主聯盟映画配給社(日本映画プロダクション連盟)の創立に参加するため、同年5月18日公開の二川文太郎監督映画『新版大岡政談 中篇』で嵐長三郎と共演したのを最後にマキノ・プロダクションを退社[2][4][5][6]。同館主聯盟は5つのスター・プロダクションから構成され、自由製作・自由配給をねらったものであったが、間も無く解散してしまい、武井は片岡千恵蔵プロダクションに所属する[2][3][4][5][6]。同年6月15日公開の稲垣浩監督映画『天下太平記』をはじめ多数の作品に出演するが、1929年(昭和4年)2月に独立、同館主聯盟が建てた貸しスタジオの双ヶ丘撮影所内に武井龍三プロダクションを設立する[2][3]。同年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』(映画世界社)及び1934年(昭和9年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』(同社)によれば、日本キネマを設立したという旨が記されているが、同プロダクションの別称又は誤りであるかどうかは不明である[5][6]。同年4月7日公開の双ヶ丘孝監督映画『金剛呪文 前篇』などを製作するが失敗に終わる[2][3][5][6]

1928年(昭和4年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(同社)など一部の資料によれば、京都府葛野郡花園村垣ノ内町6番地(現在の同府京都市右京区太秦垣内町[4]、京都府葛野郡花園村谷口五反田(現在の同府京都市右京区花園[5]奈良県奈良市林小路町1番地[6] と転々と住み、身体は5尺3寸(約160.6センチメートル)[4][5][6]、体重は13貫700匁(約51.4キログラム)[4][5] から後に15貫200匁(約57.0キログラム)[6] となり、趣味は読書麻雀であり、お酒が嗜好であるという[4][5][6]

その後は実演巡業に戻っていたが、1930年(昭和5年)6月、市川右太衛門プロダクションに移籍[2][5][6]。同年7月19日に公開された白井戦太郎監督映画『蜥蝪鞘』など、以降は脇役に回る事が多くなったが、一方で1931年(昭和6年)に公開された神田金太郎監督映画『血煙一番槍』では主演を務めている[2]。1936年(昭和11年)1月、右太プロは間もなく解散、吸収先の松竹太秦撮影所を経て松竹下加茂撮影所に移籍[2][3]。1938年(昭和13年)10月27日に公開された大曽根辰夫監督映画『奴銀平』が確認出来る最後の出演作である。その後、梅若禮三郎嵐菊麿らと松竹京都移動劇団を結成し、1941年(昭和16年)まで関西地方を中心に巡業した[2]

1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』(同項の執筆岡部龍奥田久司キネマ旬報社)などでは、終戦後の来歴は述べられておらず、以後の消息は不明・没年不詳とする[2][3] が、『読売新聞』昭和33年11月17日付によれば、戦後はえくらん社に所属していたといい、かつて松竹下加茂撮影所の俳優仲間であった柳さく子をおよそ15年ぶりに映画出演させた人物として報じられている[7]。1972年(昭和47年)10月20日に発行された『講演時報』(連合通信社)によれば、東映京都撮影所殺陣師としても活動していたという[8]。1963年(昭和38年)12月1日に開催された第8回「映画の日」中央大会では、映画業界に40年以上勤務した永年勤続功労章受章者として、杉狂児市川龍男大邦一公浦辺粂子らと共に表彰された[9]

また、1980年(昭和55年)12月31日に発行された『日本映画俳優全集 女優篇』(キネマ旬報社)によれば、1963年(昭和38年)3月20日に柳さく子が肺水腫のため死去した際、無縁仏となるところを偶然知り、武井の斡旋により京都府京都市北区鷹峯千束町32番地にある吟松寺に納めたという[1]。その後、武井も翌1964年(昭和39年)11月に死去し、2人の墓は背中合わせに立っているという旨が記されている[1]。満59歳没。

出演作品[編集]

東亜マキノ等持院撮影所[編集]

全て製作・配給は「東亜マキノ等持院撮影所」、全てサイレント映画である。

マキノ・プロダクション御室撮影所[編集]

全て製作は「マキノ・プロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、全てサイレント映画である。

片岡千恵蔵プロダクション[編集]

特筆以外、全て製作は「片岡千恵蔵プロダクション」、配給は「松竹」、全てサイレント映画である。

武井龍三プロダクション[編集]

全て製作・配給は「武井龍三プロダクション」、全てサイレント映画である。

市川右太衛門プロダクション[編集]

特筆以外、全て製作は「市川右太衛門プロダクション」、配給は「松竹」、特筆以外は全てサイレント映画である。

松竹太秦撮影所[編集]

全て製作は「松竹太秦撮影所」、配給は「松竹」、全てトーキーである。

松竹下加茂撮影所[編集]

全て製作は「松竹下加茂撮影所」、配給は「松竹」、全てトーキーである。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『日本映画俳優全集 女優篇』キネマ旬報社、1980年、708頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、333-334頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『芸能人物事典 明治大正昭和』日外アソシエーツ、1998年、334頁。 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』映画世界社、1928年、51頁。 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』映画世界社、1929年、62頁。 
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』映画世界社、1934年、70頁。 
  7. ^ 『読売新聞』昭和33年11月17日付。
  8. ^ 『講演時報』昭和47年10月20日号、連合通信社、17頁。
  9. ^ 『キネマ旬報』1964年2月下旬号、172頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]