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柳家紫文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柳家やなぎや 紫文しもん
柳家(やなぎや) 紫文(しもん)
定紋「備前蝶菱」
本名 田島たじま さとし
生年月日 1957年12月24日
没年月日 (2021-11-19) 2021年11月19日(63歳没)
出身地 日本の旗 日本群馬県高崎市[1]
師匠 十一代目岸澤式佐
二代目柳家紫朝
名跡 1. 岸澤式祐しきすけ
(1988年 - 1995年)
2. 柳家紫文
(1995年 - 2021年)
出囃子 釣女
活動期間 1988年 - 2021年
活動内容 三味線漫談、音曲
所属 落語協会
受賞歴
国立演芸場花形演芸大賞銀賞(2006年)

柳家 紫文(やなぎや しもん、1957年12月24日 - 2021年11月19日)は、落語協会に所属していた三味線漫談家音曲師出囃子は『釣女』、は『備前蝶菱』。本名:田島 悟

経歴

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幼少時から病弱でなかなか学校に通えず、また実家が小料理屋だったため、芸事に親しんで育った。群馬県立高崎高等学校卒業後、20代半ばで上京。フリーターをしながら赤塚不二夫柳家小袁治の世話になる。

1988年十一代目岸澤式佐門下・岸澤式祐(きしざわ しきすけ)の名で歌舞伎常磐津節三味線方を務める。

1995年二代目柳家紫朝に入門、引き続き歌舞伎等の舞台をこなす傍ら、柳家紫文を名乗り色物として高座に上がり始める。

2021年11月19日9時6分、ネフローゼ症候群のため死去した[2][3]。63歳没。

人物

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三味線を奏でながら、「火付盗賊改方長谷川平蔵が、何時ものように両国橋の袂を歩いておりますと…」と、ニヒルな風情で語る『鬼平市中見廻り日記(鬼平半可通)』が十八番。オチは基本的に駄洒落(地口)[4]新内(鶴賀寿美之助)、長唄(杵屋正楽)、小唄(立花光洋)、華道(田島理悟)、日本舞踊(萩井右京)の名取でもあり、「7つの名を持つ男」を自称する。

女弟子達とバンド『柳家紫文と東京ガールズ』を組み邦楽の普及を図ったり、独演会を Ustream でインターネット生中継するなど、先進的な取り組みで新しい演芸ファン層を開拓していた。定席では落語協会のほか、五代目円楽一門会の両国寄席にもレギュラー出演していた。

夫人と共に、高円寺駅南口で小料理屋「ちんとんしゃん」を経営。高円寺の冬のイベントとして2011年からスタートした『高円寺演芸まつり』では中心的役割を務め[5]、2022年、写真や都々逸、仲間のコメントなどによる追悼展示「柳家紫文―粋な芸と高円寺演芸まつり―」が座・高円寺のギャラリーアソビバで開催された[6]

芸歴

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受賞歴

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メディア出演

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テレビ

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など

ラジオ

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など

映画

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主著

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  • 『都々逸読本』 海竜社
  • 『都々逸人生教室』 海竜社

一門弟子

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脚注

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  1. ^ 『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.562
  2. ^ 柳家紫文 訃報”. 落語協会 (2021年11月25日). 2021年11月25日閲覧。
  3. ^ 落語家の柳家紫文さん死去 63歳”. スポニチアネックス. スポーツニッポン新聞社 (2021年11月25日). 2021年11月25日閲覧。
  4. ^ 「今日だけは特別ですよ…」と言いながら、「大岡越前」のネタをやるのも恒例であった(構成は「鬼平」と同じ)。
  5. ^ 高円寺の演芸まつりがなみじゃない!”. なみじゃない、杉並!. 中央線あるあるPROJECT実行委員会 (2018年2月9日). 2022年2月12日閲覧。 “中心になって動いてくれた柳家紫文師匠は、以前から「将来を嘱望されている若手の芸人を集めて、地元・高円寺で寄席を開催したい」という思いを持っていたため、話はトントン拍子に進みました。”
  6. ^ 第12回 高円寺演芸まつり”. 柳家紫文―粋な芸と高円寺演芸まつり―. NPO法人 劇場創造ネットワーク. 2022年2月12日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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