春秋二倍暦説

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春秋二倍暦説(しゅんじゅうにばいれきせつ)は、日本考古学における仮説の一つ。古代日本史を復元する上でしばしば提唱される。

概要[編集]

古代の日本社会においては春から夏までの半年間と、秋から冬までの半年をそれぞれ1年と数えていたとする説で、ヤマト王権の初期に在位したとされる天皇たちの不自然な長寿を説明する際にしばしば用いられる。

古くは明治時代にデンマーク人ウィリアム・ブラムセンが類似した説を唱えた他、初期の天皇たち(特に第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの所謂欠史八代)の事績や実在性そのものが疑問視されるようになったのに対し、幾人かの日本人学者が『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」の注釈に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」とあることを論拠にこの説を展開した。

根拠薄弱で学説として広く支持されているとは言い難いももの、ある程度の説得力がある事から古代史を語る上ではしばしば話題に出される知名度の高い説である。

欠史八代を巡る肯定的論説[編集]

学会の主流となっている非実在説については欠史八代を参照。

歴史学ではこれらの天皇は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力であるが[1]、八代全部の実在したという立場を取肯定する研究者や、八代の全てが創作ではないとみる「一部肯定説」的な研究者も複数いる[2][注 1]

寿命問題[編集]

日本書紀の記述に拠る歴代天皇の没年齢
神武天皇 124
綏靖天皇 84
安寧天皇 67
懿徳天皇 77
孝昭天皇 114
孝安天皇 137
孝霊天皇 128
孝元天皇 126
開化天皇 111
崇神天皇 119
垂仁天皇 139
景行天皇 147
成務天皇 107
仲哀天皇 53
応神天皇 111
仁徳天皇 143

古代の天皇たちの実在性を立証する上で最大の問題となっているのがその人間離れした寿命の長さである。日本書紀の記述では神武天皇を含む9代の内の実に6人が100歳を越える年齢で崩御しており、殆んどの人間が40歳程度で死亡していた弥生時代においては極めて非現実的な数字となっている。

一般的な解釈ではこれらの寿命は讖緯説に則って皇室の歴史を中国や朝鮮と同程度の長さまで引き延ばす事で、国威を示す意図があったとされるものの、単に皇室の起源を遡らせるだけならば、自然な長さの寿命を持つ天皇の存在を何人も創作して代数を増やすこともできる。にもかかわらず、敢えてそれをしなかったのは、帝紀記載の天皇の代数を尊重したためであったと考えられるという指摘がある[4][5]。そのため、古代天皇の不自然な寿命の長さが、かえって系譜自体には手が加えられていないことを証明していると考えることもできる[6]。他国の例として、朝鮮半島三国時代を扱った三国史記では、新羅百済が共に高句麗よりも建国時期が古くなっている。

中国の史書からも紀元前の建国が確実な高句麗に対して、実質的な建国が4世紀と見られる両国が対抗上から行ったと考える説もある。いずれにしても、王の在位年数を2倍または4倍にすることで建国を400年程度遡らせている。また、『古事記』と『日本書紀』の年代のずれが未解決であるため、史書編纂時に意図的な年代操作はないとして原伝承や原資料の段階で既に古代天皇達は長命とされていた可能性を指摘する説もある。さらに、先代天皇との親子合算による年数計算を考慮すべきとの説もある。

倍暦説詳細[編集]

日本の伝統行事や民間祭事には(大祓や霊迎えなど)一年に二回ずつ行われるものが多いが、古代の日本では半年を一年と数えて一年を二回カウントしていたと考える『半年暦[注 2]説』がある。 『魏志倭人伝』の裴松之注には「『魏略』に曰く、その俗正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」と記されており、古代の倭人が一年を耕作期(春・夏)と収穫期(秋・冬)の二つに分けて数えていた可能性が窺える。そのことを踏まえれば天皇達の異常な寿命・在位年数にも不自然さがなくなり、『魏志倭人伝』の記述にある倭人が「百年、あるいは八、九十年」まで生きたという古代人としては異常な長寿についても説明がつく。 また一つの季節を一年と数え、一年を四回カウントする『4倍年暦説』もある。この二通りで古代天皇の在位年数を計算すると以下のようになる。

  1. 神武天皇 半年暦で38年、4倍年暦で19年
  2. 綏靖天皇 半年暦で16.5年、4倍年暦で8.25年
  3. 安寧天皇 半年暦で19年、4倍年暦で9.5年
  4. 懿徳天皇 半年暦で17年、4倍年暦で8.5年
  5. 孝昭天皇 半年暦で41.5年、4倍年暦で20.75年
  6. 孝安天皇 半年暦で51年、4倍年暦で25.5年
  7. 孝霊天皇 半年暦で38年、4倍年暦で19年
  8. 孝元天皇 半年暦で28.5年、4倍年暦で14.25年
  9. 開化天皇 半年暦で30年、4倍年暦で15年
  10. 崇神天皇 半年暦で34年、4倍年暦で17年

古代においては兄弟相続、傍系相続が普通であり、また平均寿命が40 - 50年であったことを考慮すると、実際は在位年数に4倍年暦、即位前の年齢には半年暦を採用していた可能性が高い。それら考慮した場合、その世代数は以下のようになる[7]

  1. 1.神武
  2. 2.綏靖・安寧
  3. 3.懿徳・孝安(別族)
  4. 4.孝昭
  5. 5.孝霊・孝元
  6. 6.開化・崇神

また、皇室の存在を神秘的に見せるために長命な天皇を創作するのであれば旧約聖書創世記に出てくるアダムのような飛び抜けた長命(930歳まで生きたとされる)にしてもよいのに、二分の一[注 3]、四分の一に割って不自然な寿命になる天皇は一人も存在せず、このことも半年暦が使用されていたことを窺わせる。また、17代履中天皇以降から不自然な寿命が少なくなり、『古事記』と『日本書紀』の享年のずれがおおよそ二倍という天皇もおり(実在が有力な21代雄略天皇の享年は『古事記』では124歳、『日本書紀』では62歳と、ちょうど二倍。26代継体天皇も『古事記』43歳と『日本書紀』82歳で、ほぼ二倍)、この時期あたりが半年暦から標準的な暦へ移行する過渡期だったと推測することもできる[8]。また、日本書紀の暦は20代安康天皇3年(456年)以降は元嘉暦が使用されているがそれ以前は書記編纂時に使われていた儀鳳暦で記述されており、このことから安康以降は元嘉暦による記録が存在したもののそれ以前は暦法といえるような暦が残っていなかったために便宜的に書記編纂時の儀鳳暦を当てはめたと考えられ、この時期に暦にまつわる大きな変革があったとも推測できる[9][10]

問題点[編集]

十二月問題[編集]

二倍暦説にはシンプルかつ致命的な問題点があり、日本書紀や古事記に書かれる天皇の長命を説明するために、日本書紀や古事記に書かれる年月日を否定ないし無視しなくてはならない。特に分かりやすい論点は十二月の存在で、長命の天皇についての記述に付随して十二月という月が記述されていることを釈明できねば論外である。

古事記のいわゆる崩年干支について、崇神天皇では「天皇御歲、壹佰陸拾捌歲。戊寅年十二月崩」とあり、168歳で十二月に亡くなったとある。二倍暦であれば84歳となるが、その十二月とはどういうことなのか。

また日本書紀の神武天皇の記載には「其年冬十月丁巳朔辛酉」「十有二月丙辰朔壬午」といった記載が出てくるが、やはり半年を1年としたならば、十月、十二月という月は甚だ不自然である。

東アジアでは古来より干支によって年や日を表す習慣があり、端的に言えば年や日が60周期で巡るうちの何であるかが示されてきた。例えば神武天皇の即位の日は『日本書紀』卷第三、神武紀 「辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮」とあり、これは辛酉の年の正月、朔(新月の日で旧暦では1日となる)の日は庚辰であることを表す。

この、年の60周期、日の60周期がちょうどそのように合致する日というのは計算をすれば求まるが、日本書紀の複数の記載から神代の干支の記載は儀鳳暦(ただし、月の長さを長短を考慮しない平朔と呼ばれる簡易方式)を用いるとよく合致することが小川清彦[11]によって指摘されている。

このように日本書紀の暦日の記載に対する整合性を二倍暦は崩し、日本書紀に記載される天皇の長寿の説明のために、日本書紀に記載される年月の記載を無視する必要がある。

春の偶奇問題[編集]

上記の通り、月の数え方について疑念があるが、それをおくとして二倍暦であれば春夏の年、秋冬の年が交互にやってくることになる。どちらかが偶数でどちらかが奇数になるということである。

日本書紀の神武天皇の記載で登場する暦日にいかのように春と季節が書かれているものがある。「乙卯年三月甲寅朔己未」「戊午年二月丁酉朔丁未」ここで、乙卯は干支の52番目、戊午は55番目であり、3年経って春である。このような記述も二倍暦とは相容れない。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 例えば八代全部の実在を肯定する研究者では、坂本太郎などや[3]鳥越憲三郎林屋辰三郎田中卓などがおり[2]、一部を肯定する研究者には、上田正昭黛弘道などがいる[2]
  2. ^ 一年二歳暦、春秋暦、2倍年暦とも。
  3. ^ ただし半年暦の場合、孝安天皇の即位年数と在位年数を合わせた場合、異常な長寿となってしまう。

出典[編集]

  1. ^ 木下 1993, p. 263
  2. ^ a b c 前之園 1983, pp. 1–4
  3. ^ 坂本 1970<, p. 93
  4. ^ (平泉 1979)P36
  5. ^ (西尾 1999)P164
  6. ^ (鳥越 1987)P253
  7. ^ 宝賀寿男『古代氏族の研究⑬ 天皇氏族 天孫族の来た道』青垣出版、2018年。
  8. ^ (安本 2005)P159-163
  9. ^ (安本 2005)P126
  10. ^ (牧村 2016)P59-61
  11. ^ 小川清彦 (1946). “日本書紀の暦日に就て”. 日本書紀暦日原典. 

参考文献[編集]

  • 倉西裕子日本書紀の真実 紀年論を解くs』講談社、2003年5月。ISBN 978-4-06-258270-4https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195230 
  • 関根淳『六国史以前 日本書紀への道のり』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー 502〉、2020年7月。ISBN 978-4-642-08385-0 
  • 前之園亮一「〈論説〉「欠史八代」について (上)」『学習院史学』第21号、学習院大学、1-31頁、1983年4月28日。 NAID 110007562869 

関連項目[編集]