尾崎公子

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おざき きみこ

尾崎 公子
生誕 1922年5月3日
日本の旗 大阪府大阪市船場
死没 (2019-04-29) 2019年4月29日(96歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 大阪府立清水谷高等女学校
日本女子大学
職業 オザックス取締役相談役
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尾﨑 公子(おざき きみこ、1922年<大正11年>5月3日 - 2019年<平成31年>4月29日[1])は、日本実業家パルプフィルムなどの専門商社オザックス取締役相談役大阪船場の紙問屋を年商1000億円に迫る[2]素材商社に育て上げた。大阪商工会議所で初の女性の常議員で、同女性会連合会名誉会長。全国商工会議所女性会連合会[3]特別顧問も務めた。2010年旭日双光章

略歴[編集]

船場長堀橋)の金属雑貨輸出商の家に生まれる。大阪府立清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)卒業後、日本女子大学に入学。太平洋戦争中の1943年昭和18年)10月に繰り上げ卒業し、船場の老舗「尾﨑洋紙店」(後の尾﨑商産。現・オザックス)創業家に嫁ぐ。

1978年(昭和53年)2代目社長の夫・徳太郎が死去。3代目に長男・敏紘が33歳の若さで就任したため、専業主婦から一転し経営に参画。若い社長を盛り立てながら、会社を年商800億円[4]の紙パルプ・フィルムの専門商社に育て上げた。

また、「伊藤忠中興の祖」の越後正一伊藤忠商事会長から誘われ、大阪商工会議所に入会。大商124年の歴史で初の女性の常議員になり、大阪商工会議所女性会の名誉会長に就任した[5]

人物[編集]

船場の資産家の「いとさん」(お嬢さん)育ちだが、小学校から女子大まで無欠席を貫く[6]

結婚7ケ月で夫が戦地に再応召。その間に長男が誕生し、「に仕え、家事育児に専念する主婦として、社業には一切ノータッチ」で良妻賢母御寮人として暮らしていたが1978年に夫が入院。泊まり込み看病6ケ月間に「主人がいかに会社を愛して社業に没頭し、主人のすべてが即会社である姿勢に、目をみはる驚きと感動を覚え」て、夫の死後、遺志を継ぎ経営者となる。新進気鋭で改革を目指す3代目社長の長男と、古い商習慣を守る番頭たちとの間に立ち、懸け橋となるよう調整役に徹した[7]

1985年8月12日の日本航空123便墜落事故では、51年間も勤めた専務が搭乗。遺体が見つかるまで御巣鷹山に16日間も滞在し続けたこともあった[6]

大阪商工会議所で初の女性の常議員として、女性会の会長4期の任期中の1995年平成7年)1月に発生した阪神・淡路大震災を踏まえ、大きなダメージを受けた関西だからこそ「大阪のド根性、なにわ女の『心意気』を(全国に)ぜひとも示したい」と、全国商工会議所女性会連合会の大会を大阪城ホールで開催。参加者数の新記録3900人の盛況となった。

持論は「人生に折り返し点、下り坂などあるはずがない」。また、「私たち女性経営者の共通点は、はじけるような明るさの中に、したたかなまでのファイト、徹底したプラス思考」があると考えており、各地でボランティア講演の際、以下の4点を説いている[8]

(1)情報技術が進んでも、心を癒やし・励まし・勇気と希望を与えるのは「人」「心」のみ

(2)真の男女平等実現へ、女性は2倍3倍の努力精進が必要
(3)すべての試練を、己を磨くための研磨剤と受容し、前向きに積極的にとらえ、ただひたむきに生き抜くこと。齢を重ねることは心の根を深くし、人の情けがひとしお身に染みてくる。年齢は私にとっての宝物、財産

(4)いただいた命を、最期の日まで目をキラキラと輝かせ、笑顔で全力投球

長男(豊弘)次男(敏紘)の通う国立大阪教育大学附属池田中学校ではPTA会長を、自身の母校大阪府立清水谷高等学校では同窓会清友会の会長を、そして大阪府知事の後援会(太田房江)では副会長を務めた。

表彰[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]