ヴィシー
| ヴィシー | |
|---|---|
| 行政 | |
| 国 | |
| 地域圏(Région) | オーヴェルニュ地域圏 |
| 県(département) | アリエ県 |
| 郡(arrondissement) | ヴィシー郡 (郡庁所在地) |
| INSEEコード | 03310 |
| 郵便番号 | 03200 |
| 市長(任期) | Claude Malhuret |
| 自治体間連合 (fr) | Communauté d'agglomération de Vichy Val d'Allier |
| 人口動態 | |
| 人口 | 26 501人 (1999年) |
| 人口密度 | 4530人/km² |
| 地理 | |
| 座標 | 北緯46度07分40秒 東経3度25分36秒 / 北緯46.127778度 東経3.426667度 座標: 北緯46度07分40秒 東経3度25分36秒 / 北緯46.127778度 東経3.426667度 |
| 標高 | 平均:249 m 最低: 最高: |
| 面積 | 5,85km² (ha) |
ヴィシー(Vichy)は、クレルモン=フェランに近い温泉保養地。第二次世界大戦期にはヴィシー政権が置かれた場所としても知られている。現在はアリエ県、ヴィシー郡の郡庁所在地。フランス語の形容詞形がヴィシソワVichyssois、その女性形がヴィシソワーズVichyssoise。スープのヴィシソワーズは発明者の出身地がヴィシーだったことから来ている。
目次 |
[編集] 歴史
9世紀までヴィシーは流行の中心地であり、多くの著名人の注目を集めた。しかし、1861年から1866年のナポレオン3世の時代に再開発が行われ、街の様子は一変した。新しい大通りが通り、アリエ川沿いに堤防が造られ、公園には1865年に建築家Badgerによって巨大なカジノが造られた。
第二帝政の後、ベル・エポックによる二番に大きな建築ラッシュが起きた。1903年にオペラハウス、ホール、東洋風に設計された大浴場がオープンした。
[編集] ヴィシー政権
詳細は「ヴィシー政権」を参照
1940年6月22日に署名された停戦条約の後、この区域はドイツには占領されず、フランス国 (État Français) の名前で、7月1日にヴィシーを首都と定めた。理由は比較的パリに近く (列車で4.5時間) 、温泉地であるためホテルの収容人数が多く、臨時の官庁及び官舎を置くのに都合が良かったためである[1]。当時のホテル収容人数は国内第2位であった。その上、当時では超近代的な電話交換機があり、電話を介して全世界と連絡を取ることが可能であった。
7月1日、政府は多くのホテルの所有権を得た。国会議員600人はヴィシーでの会議や評議会に参加した。7月9-10日には、オペラハウスの大ホール客席で、国会議員は、第三共和制終了のための投票を行った。民主政体は廃止され、フィリップ・ペタンを首席とするヴィシー政権がこれに替わった。600人中わずか80人の議員が反対を表明した。この日から始まって4年以上の間、ヴィシーはフランスの首都となり「ヴィシー政権」と呼ばれた。
北アフリカのフランス植民地を舞台とした映画「カサブランカ」には、登場人物の警察署長が「ヴィシー水」を捨てるという象徴的なシーンがある。
[編集] 名物
- ミネラルウォーター
- 温泉 - 噴泉口は30ヶ所を越える。一部は冷泉を含むが、摂氏60度を保つものも存在する。利用法は温浴法、灌水法、飲用法が用いられている[1]。
- 化粧品 - 温泉の湯を利用して作られることで有名。
[編集] 姉妹都市
ヴィルヘルムスハーフェン、ドイツ
バード・テル ツ、ドイツ
ライン=ネッカー=クライス、ドイツ
ダンファームリン、イギリス
ログローニョ、スペイン
クルージュ=ナポカ、ルーマニア
サラトガスプリング、アメリカ合衆国