クレルモン=フェラン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ラ・ピエール・カレーから眺めたクレルモン=フェラン。左手に2つの塔をもつ大聖堂。
Clermont-Ferrand
Blason ville fr ClermontFerrand (PuyDome).svg

Montage Clermont-Ferrand.jpg
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) オーヴェルニュ地域圏
(département) ピュイ=ド=ドーム県
(県庁所在地)
(arrondissement) クレルモン=フェラン郡
(郡庁所在地)
小郡 (canton) 9
INSEEコード 63113
郵便番号 63000,63100
市長任期 セルジュ・ゴダール
2008年-2014年
人口動態
人口 143 000人
2010年
人口密度 3 214人/km²
地理
座標 北緯45度46分59秒 東経3度04分56秒 / 北緯45.783088度 東経3.082352度 / 45.783088; 3.082352座標: 北緯45度46分59秒 東経3度04分56秒 / 北緯45.783088度 東経3.082352度 / 45.783088; 3.082352
標高 平均:358 m
最低:321m
最高:602 m
面積 42,67km² (4 267ha)
Clermont-Ferrandの位置(フランス内)
Clermont-Ferrand
Clermont-Ferrand
テンプレートを表示

クレルモン=フェランClermont-Ferrand)はフランス中央高地に位置する都市の一つ。オーヴェルニュ地域圏首府であり、ピュイ=ド=ドーム県県庁所在地である。

概要[編集]

人口は2005年現在で約14万人、面積は42.67km²。近隣都市を併せた人口は約26万人、クレルモン=フェラン都市圏の人口は約40万人である。クレルモン=フェランを取り囲む火山のうち、街から13km離れた最高峰ピュイ=ド=ドーム(標高1,464m)の山頂には、通信中継用アンテナが設置されている。

フランスの中でも最も古くからある街の一つであるが、現在のクレルモン=フェラン市はクレルモン市(Clermont)とモンフェラン市(Montferrand)の両市の合併によって発足した。クレルモンは1095年ローマ教皇ウルバヌス2世教会会議を開き、エルサレムへの巡礼の保護を名目として聖地遠征軍(第1回十字軍)の結成を呼びかけた場所として、また17世紀の科学者ブレーズ・パスカルの出身地としても著名である。近郊には、シャレード・サーキットと呼ばれるサーキットがあり、F1フランスGPが4度開催された。

歴史[編集]

大聖堂ノートル=ダム=ド=ラサンプシオン(被昇天聖母大聖堂、夜景)

古代、この地方はウェルキンゲトリクスを出したアルウェルニ族が居住しており、現在のクレルモン=フェラン付近も既に紀元前より街が築かれていた。古代ローマ期・ギリシアの歴史家ストラボンは、ガリア語で「聖なる森」を意味するネメッソス (Nemessos) の名でこの場所にあった街に言及している。紀元前52年にウェルキンゲトリクス率いるガリア人連合軍とガイウス・ユリウス・カエサル(当時ガリア総督)麾下のローマ軍が戦ったゲルゴウィア(ラテン語:Gergovia)は、クレルモン=フェランの南に位置し、その遺構を今も見ることが出来る。

ガリアが平定されて後、紀元前50年にガリアは共和政ローマ(紀元前27年より帝政へ移行)の属州(ガリア・アクィタニア)に組込まれた。のちに街の名はガリア語から、皇帝アウグストゥスに因んでラテン語名アウグストネメートゥムに改称された。この街は、のちのクレルモンの前身に当たる。2世紀のアウグストネメートゥムの人口は15,000人から30,000人ほどと推定されている。

キリスト教が解禁された4世紀には、この街に司教座がおかれた。中世になると、街はモンス・クラールス (Mons clarus) あるいはクレルモン (Clairmont) の名で知られるようになった。848年の記録には、クレルモンにモンス・クラールスの名をもつ城砦が建築されたことが記録されている。クレルモンは手工業で知られ、繁栄し、次第に拡大していった。スペインサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼が盛んになると、クレルモンは北部フランスからスペインへ向かう巡礼路上の都市のひとつとなった。

1248年にはクレルモンの被昇天聖母大聖堂が着工された。一方1120年にはオーヴェルニュ伯爵が隣接する土地に、南仏の諸都市を模範とする新たな都市モンフェランを創建した。1551年クレルモンはフランス王の直轄地とされ、1610年には王権と不可分であると改めて宣言された。

近世に入って、クレルモンとモンフェランの統合が進められた。1630年4月15日、二つの都市の合併を命じる勅令が発布された。この勅令の内容は、1731年ルイ15世の勅命により再確認された。しかしながらモンフェランはこの統合を歓迎せず、18世紀後半から19世紀前半にかけて、幾度かに渡って、分離の要求がなされた。両都市の完全で対等な統合がなされたのは20世紀に達してからである。今日のクレルモン=フェランは、それぞれに特徴を備えた二つの都心部をもつ都市として存立している。モンフェラン旧市街は中世の街並みをよく残す。クレルモン旧市街のバシリカ聖堂であるノートルダム=デュ=ポール寺院ユネスコ世界遺産フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の一部として登録されている[1]

産業[編集]

ミシュラン本社

クレルモン=フェランにはミシュランの本社があり、フランスのタイヤ産業の中心地である。1970年には市民のうちミシュランの従業員は3万人であった。クレルモン=フェランの工場は縮小されて従業員数こそ半減したものの、本社機能で14,000人近い従業員を抱えており、依然としてクレルモン=フェラン経済にとってミシュラン社の役割は重要である(特に、市財政にとってはミシュラン本社からの法人税収入が期待できるため)。

ゴム製品製造を除いた、市の主な産業は、食品加工、製薬業、金属工業であり、ボルヴィックの工場がピュイ=ド=ドーム近郊にある。

教育[編集]

オーベルニュ大学(クレルモン第1大学)とブレーズ・パスカル大学(クレルモン第2大学)の2大学があり、約3万人の学生が在学する。後者の名はクレルモン=フェラン出身の数学者、ブレーズ・パスカルに因む。

出身有名人[編集]

姉妹都市[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]