ヴァルター・フォン・ライヒェナウ

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ヴァルター・フォン・ライヒェナウ

ヴァルター・フォン・ライヒェナウ(Walter von Reichenau, 1884年10月8日 - 1942年1月17日)は、ドイツ軍人、陸軍元帥ナチ党の権力掌握期のの実力者であり、第二次世界大戦で前線司令官を務めたほか、1938年から国際オリンピック委員会の委員を務めていた。

経歴[編集]

カールスルーエプロイセン軍人の息子として生まれる。1903年のアビトゥーア合格後に軍に入り、参謀将校として第一次世界大戦に参加。第1近衛野砲兵連隊副官、第47後備歩兵師団や第7騎兵教導師団の参謀を務め、大尉に昇進。1918年の終戦後は国軍(Reichswehr)に採用され、シレジアポメラニアの国境警備に従事。1924年少佐1929年中佐に昇進。1931年に第1歩兵師団に転属となり、翌年大佐に昇進した。師団長はヴェルナー・フォン・ブロンベルクであり、この時期に彼と強い信頼関係を持つようになった。早い内から熱狂的なヒトラーとナチスの支持者であり、1931年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党している。

ヒトラー政権樹立直後の1933年2月、国防大臣となったブロンベルクの官房長に就任し、実務面における軍の実力者となった。翌年改称された軍務局長に就任して少将に昇進した。しかし新たな軍となる希望を持っていた突撃隊としばしば衝突し、1934年の親衛隊が主導した突撃隊粛清に際しては、ハインリヒ・ヒムラーラインハルト・ハイドリヒと頻繁に情報を交換してこれを援助している(長いナイフの夜[1]。また同年のオーストリア・ナチスによるオーストリア首相エンゲルベルト・ドルフース首相暗殺とその後のクーデターにも援助を行っていたという[2]。また外交面ではブロンベルクとともに親中華民国路線を主導する立場であり、日本との連携を模索するヴィルヘルム・カナリスヨアヒム・フォン・リッベントロップと対立した(中独合作)。

1935年10月、第7軍団長に転出し、中将に昇進したが、なおも中国との交渉においては責任者の地位にあった。10月には訪中し、ドイツ国内の対日接近派からは「彼(ヒトラーの)外交構想をすべて台無しにしようとしている。ライヒェナウは皆と同じように『中国病』にかかって帰国した」と批判された[3]。翌年砲兵大将に昇進。1938年には第4軍司令官に任命され、ズデーテン地方の併合作戦に従事した。同年に起きたブロンベルク罷免事件では、退任するブロンベルクの推薦でフリッチュに代わる陸軍総司令官候補の一人にあげられたが、ライヒェナウがあまりにナチスに近すぎることを懸念したルートヴィヒ・ベックルントシュテットが反対したため、陸軍総司令官就任は流れた。

1939年9月、ドイツによるポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まるが、この作戦でライヒェナウは第10軍を指揮、作戦終了後上級大将に昇進。翌年5月の西方電撃戦には第6軍司令官として参加し、ベルギーを降伏させた。フランス降伏後の7月に戦功を賞され元帥に列せられる。翌1941年に始まる独ソ戦にも参加、同じく第6軍を率いた。

第6軍司令部を訪問したヒトラーと会食するライヒェナウ(1941年9月27日、ウクライナ)

ライヒェナウは勇猛な前線司令官であると同時に、熱心・忠実なナチス党員でもあり、独ソ戦の期間中にユダヤ人などに対する大量虐殺の命令を度々下している。これは親衛隊ゾンダーコマンド4aの司令官パウル・ブローベルとの協力で行われたものであり、親衛隊とは別組織であるドイツ国防軍が戦争犯罪に手を染めていた実例とされている。1941年8月22日、ビーラ・ツェールクヴァで延期されていたユダヤ人の子供90人に対する処刑を指令。同年9月末にはバビ・ヤールにおいて2日間でユダヤ人3万人が処刑された。さらに10月10日、ユダヤ人虐殺を命じるいわゆる「ライヒェナウ指令」を第6軍に下達。その指令にいう。

「東方に従軍する兵士は、戦術によって戦う戦士であるのみならず、呵責のない民族主義思想の保持者、ドイツ民族に仇なす邪魔者に対する復讐者たらねばならない。それゆえ兵士はユダヤ人という劣等民族ドイツ語版に対する容赦のない、しかし正当な処置に関する完全な理解を心がけるべきである。この処置はまた、国防軍の背後で謀反を企む者たちの芽を摘み取るという目的ももっている」

ヒトラーはこの「ライヒェナウ指令」を絶賛し、東部戦線の全ての軍司令官にこの指令に倣うよう下達した。

ヒトラーのお気に入りとなったライヒェナウは、逆に不興を買っていたゲルト・フォン・ルントシュテットに代わって1941年12月1日に南方軍集団司令官に任命された。しかしその直後の1942年1月15日、零下40℃の森の中を歩いた後にライヒェナウは脳卒中で倒れ、ドイツでの治療のため飛行機で後送されたが、途中のレンベルクで乗機が着陸に失敗し重傷を負った。さらにライプツィヒまで空輸されたが、到着したときには既に死亡していた。ベルリンの軍人墓地に埋葬された。

脚注[編集]

  1. ^ 黒川康 1970, pp. 25.
  2. ^ 黒川康 1970, pp. 30-31.
  3. ^ 田嶋信雄 1987, pp. 129-130.

参考文献[編集]

  • 黒川康「ドイツ国防軍と「レーム事件」--第1次世界大戦後のドイツ再軍備構想に関する一考察」、『人文科学論集』第5巻、目白大学、1970年、 p19-31、 NAID 120002753885
  • 田嶋信雄「<論説>日独防共協定像の再構成(2・完) : ドイツ側の政治過程を中心に」、『成城法学』第25巻、成城大学、1987年7月、 105-142頁、 NAID 110000246296

外部リンク[編集]