マナ

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マナMana)は、太平洋島嶼で見られる原始的な宗教において、神秘的な力の源とされる概念である。魔法超能力といった尋常ならざる特別な力の源とも言われている。

概要[編集]

遍在する超自然的な力で、これを槍や網などの道具類、もしくは病気・疲労などで衰弱した人に注入することによって、より望ましい状態に変化させることができると考えられている。

マナの存在を西洋社会に初めて紹介したのは、イギリス帝国の宣教師であったコドリントンRobert Henry Codrington, 1830-1922)の『メラネシア人』によってである。彼は、メラネシア土人が際立って早く進むカヌーを説明するとき「あのカヌーにはマナが宿っている」という言い方をすることから、マナという非人格的な力の観念が存在することを指摘した。

マルセル・モースは著作『呪術論』の中で、以下のように述べている。

  • 「マナは単に一つの力、存在であるのみならず、一つの作用、資質および状態である。換言すれば、この語は、名詞であると同時に形容詞、動詞でもある」
  • 「我々が妖術使いの力、ある事物の呪術的資質、呪術的事物、呪術的存在、呪術を持つ、まじないをかけられる、呪術的に作用する、といったような言葉で持って示している雑多な観念を包摂している」

つまりマナは資質であり、実体であり、力である。お守りジンクスが例にあげられる。人に宿るマナは霊能力カリスマ的魅力の一部があげられる。

観念や言語的特性という点でみると、それは抽象的、一般的でありながら具体性に満ちており、事物と人間の価値、すなわち呪術的・宗教的・社会的価値を作り上げているとも解釈できる。人や物に宿る「何か」であって、人や物そのものではなく、社会関係のなかで働き、社会関係をも作り出すということである。

クロード・レヴィ=ストロースによれば、「通常の能力・状態に宿る神秘的な付加要素」と規定されている[要出典]


日本におけるマナ観[編集]

折口信夫は、『若水の話』で「柳田(國男)先生は、マナなる外来魂を稜威(イツ)という古語で表したと言はれた」と言う説を引き、『花の話』等で、日本人の霊魂観が、「魂と魄のような区別」がなく、増えたり減ったりするマナ(外来魂)であり、神道はマナ信仰の最高峰であるとした。また、『万葉集研究』において、マナの最も古い語を「日(ヒ)」とし、天皇の玉体(ミマと呼ばれる)に附ける儀礼が後ミ、ヨとなったとし、 『水の女』で中臣氏藤原氏のフジハラを「淵原」とする)を、元「天皇にマナをつける儀礼を司る一族」だったとした。

白川静は、日本語のヒ(霊)、サチが外来魂であるとする折口説を承け『字訓』、『遊字論』において「マナを増やす儀礼」であるミタマノフユは、東アジアに分布しているという説を立てた。また白川は、「万葉集の歌は、風景 郷土からマナを得るための呪歌である」と言う折口の説を襲う形で、『初期万葉論』を発表し、土橋寛も『日本語に探る古代信仰 フェティシズムから神道まで』で、「万葉集の研究家は、日本語の霊魂観における「魂の遊離性」は取り上げても「呪力(マナ)」に関心を払わない」として、タマシヒのマナ性を指摘した万葉集研究を発表している。

谷川健一は『民俗の思想』[1]で、フツ、スヂ、ケ、琉球語のセヂ、マブイをマナとする説と、個人あるいは所属する一族とマナを共有する動植物(トーテム)との関係を「ライフ・インデックス」と呼んだ折口の説を享け、太陽からのマナである「フツノミタマ」を受けて金属を孕む大地と言う信仰と、その儀礼を司る物部氏が、信仰と共に日本の辺境へ散る様(『青銅の神の足跡』『鍛冶屋の母』『白鳥伝説』)を研究し発表した。

 小松和彦の、『憑霊信仰論』によれば、「憑きもの筋は、マナが異常に多く憑いた状態を説明する為の説明体系」である。

マナの登場するファンタジー作品[編集]

神秘的な力の源とされたマナが、ラリー・ニーヴンの小説『魔法の国が消えていく』などにおいて魔法の力の源とされた。「数値化が可能である」[2]ため、その設定が中世風の世界背景を持つファンタジー小説・ロールプレイングゲーム等で使用されることがある。

脚注[編集]

  1. ^ 谷川健一『民俗の思想』66頁 岩波書店 
  2. ^ 山北篤監修 『魔法事典』 新紀元社

関連項目[編集]