プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ

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プブリウス・ウァレリウス・プブリコララテン語: Publius Valerius Publicola、? - 紀元前503年)は、共和政ローマ初期の政治家。ルキウス・ユニウス・ブルトゥス亡き後コンスルに就任。「プブリコラ」とは「民衆の友」を意味する。

ウァレリウスの出自はサビニ人で、祖先はティトゥス・タティウスの在位の際にローマに移り住んだと言う。ブルトゥスとは同輩ではなかったが、王政ローマ最後の王タルクィニウス・スペルブスを追放し、ローマ王政の終了と、共和政ローマの樹立に並々ならぬ貢献を果たした。そしてルキウス・タルキニウス・コッラティヌスの後にブルトゥスとともにコンスルを勤める。

ブルトゥスの死後、ウァレリウスは単独のコンスルとなったが、人々はこれを彼が王位を狙っているのではと恐れた。そこでウァレリウスは自らの屋敷を手放し、ローマ市民の自由と権利を守る法を作った。すなわち「王となろうと試みる者はいかなる時においても殺されるべき」という法を制定する。また、クラウディウス氏族らをローマに移住させた。その後、エトルリアの諸都市の1つキュージの王ポルセンナの軍勢にローマを包囲された際にローマ軍の陣頭指揮を執ってエトルリアの軍勢と戦った。

彼は紀元前503年に没するが、葬儀は国費で出され、ローマの女性は10カ月の間喪に服した。

なお1787年から1788年にかけ、アメリカにおいて、いわゆる「建国の父」と呼ばれるアレクサンダー・ハミルトンジョン・ジェイジェームズ・マディスンが行った米国憲法草案を擁護する匿名投稿(「フェデラリスト・ペーパー(ザ・フェデラリスト)」)は、Publiusのペンネームで行われたが、これは、ローマ市民の自由と権利を守り、共和制樹立に大きな貢献をした、このプブリウス・ウァレリウス・プブリコラにちなんでのものである。

参考書籍[編集]

『ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず』(塩野七生)