ブッチ・キャシディ

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ブッチ・キャシディ(1901年、テキサス州フォートワース

ブッチ・キャシディ(Butch Cassidy[1]1866年4月13日 - 1908年11月7日)は、アメリカ合衆国アウトロー強盗。本名はロバート・ルロイ・パーカー(Robert LeRoy Parker)。

サンダンス・キッドなどと共に強盗団「ブッチ・キャシディのワイルドバンチ」結成して、ネバダモンタナなどで銀行強盗や列車強盗を繰り返した。官憲や鉄道会社から雇われた探偵に追われて、サンダンス・キッドとともにボリビアに高飛びしたが隠れ家を包囲されて殺されたとされる。

1969年の西部劇映画『明日に向って撃て!』の題材になった。

前半生[編集]

ユタ州ビーバーモルモン教徒の家庭に生まれる。父はイングランド移民のマキシミリアン・パーカー(Maximillian Parker)、母はスコットランド移民のアン・キャンベル・ギリーズ(Ann Campbell Gillies)[2] 。母アンは、北東イングランドニューキャッスルのタインサイド(Tyneside)に生まれ暮らし、1850年代後半にアメリカのユタ準州に移り、そこでマキシミリアンと結婚した。[3] パーカーの両親はイングランド、ランカシャー、プレストン(Preston)、ヴィクトリア・ロード(Victoria Road)で暮らしていたが、そのモルモン教の信仰の宗教的迫害を逃れるために移住した。

彼は13子の第1子であった。 彼はユタ州ソルト・レーク・シティーの北346キロメートル(215マイル)のユタ州サークルヴィル(Circleville)近くの牧場で育てられた。 彼は10歳代前半で家を出て、酪農場で働きながら、ウマ窃盗犯でウシ窃盗犯であるマイク・キャシディ(Mike Cassidy)を尊敬し、その指導を受けた。 彼は、ワイオミング州ロック・スプリングス(Rock Springs)で屠殺者(butcher。ブッチャー)として短期間働き、そのとき「Butch」(ブッチ)というあだ名を得て、旧友兼師匠に敬意を表してキャシディというみょうじをそれに添えたが、それに加えてその後いくつかの牧場で働いた。

犯罪者としての人生[編集]

1880年 - 1887年 最初の諸事件、強盗犯になる[編集]

パーカーの最初の犯罪は軽い犯罪であった。1880年ころ、彼は別の町の衣服店まで旅行したが、あいにく店は閉まっていた。彼は店内にはいり、ジーンズ1着とパイをいくらか取り、次に来た時に支払うことを約束する借用証書を残した。しかしながら衣服店は告発した。パーカーは陪審裁判で無罪放免になった。

彼は1884年まで牧場で働き続けたが、そのとき彼は、表向きは仕事を探すために、もしかしたら盗んだウマを買手に引き渡すためにも、コロラド州テルユライド(Telluride)に移った。彼はワイオミング州とモンタナ州でカウボーイ生活を送り、それから1887年にテルユライドに帰った。そこで彼は、競走馬所有者のマット・ウォーナー(Matt Warner)に会った。この男らはさまざまな催しでウマをレースに出場させ、勝利金を自分たちの間で分けた。

1889年 - 1895年 初期の強盗、入獄する[編集]

パーカー、ウォーナーおよびマカーティ兄弟(McCarty Brothers)のうち2人は、1889年6月24日のテルユライドのサン・ミゲル・ヴァレー銀行(San Miguel Valley Bank)から約21,000ドルを強盗した事件の責任がある。

1890年、パーカーはワイオミング州デュボア(Dubois)近くの牧場を購入した。この位置は、悪名高い「壁の穴」から州を横切ったところで、自然的な地質学的な陣形であって、無法者らに保護を提供し、そのためにパーカーの牧場経営は、彼は決して成功していなかったが、実際は秘密の活動の、もしかしたら「壁の穴」の無法者らとの、見せかけであった。[4]

1894年前半、パーカーは、西部開拓時代の無法者で牧場労働者のアン・バセット(Ann Bassett。1878年 - 1956年)とロマンチックな関係になった。

バセットの父である牧場主ハーブ・バセット(Herb Bassett)は、パーカーに新鮮なウマと牛肉を供給して取引をしていた。その年、パーカーはワイオミング州ランダー(Lander)でウマの窃盗で、そしてことによるとそこの地元の牧場主らからの保護料の取立てででも、逮捕された。ワイオミング州ララミー(Laramie)の州刑務所に在監したが、彼は、2年の刑のうち18ヶ月、服役し、1896年1月に、州知事ウィリアム・アルフォード・リチャーズ(William Alford Richards)に、刑の軽減の返礼に州内で再犯をしないと約束して、出所した。出所するや彼は、アン・バセットの姉ジョシー(Josie)と短い関係を持ち、それからアンとの関係に復した。

1896年 - 1897年 出所して「ワイルド・バンチ」を結成する[編集]

キャシディの顔写真 ワイオミング準州監獄 1894年

出所するや、彼は、犯罪者らの輪に参加したが、そのなかには特に親友エルジー・レイ(Elzy Lay)、ハーヴェイ・「キッド・カリ」・ローガン(Harvey "Kid Curry" Logan)、ベン・キルパトリック(Ben Kilpatrick)、ハリー・トレーシー(Harry Tracy)、ウィル・「ニューズ」・カーヴァー(Will "News" Carver)、ローラ・ブリオン(Laura Bullion)およびジョージ・カリ(George Curry)がいるが、他人とともに彼は「ワイルド・バンチ」として知られるギャングを結成し、これとともに彼の犯罪活動はかなり活発になった。ワイルド・バンチがいかほど暴力的であったかなかったかに関して論争があるけれども、ワイルド・バンチの構成員のだれかでも謀殺罪の嫌疑をかけられた明確な史実は無い。[5]

1896年8月13日、パーカー、レイ、ハーヴェイ・ローガンおよびボブ・ミークスは、[6]アイダホ州モントピリア(Montpelier)で銀行強盗を働き、約7,000ドルを持って逃げた。その直後、彼は、ペンシルヴェニアの土着人であるハリー・ロングボー、別名サンダンス・キッドをワイルド・バンチに加入させた。

1897年前半、パーカーは、自分の断続的なガールフレンドであるアン・バセット、エルジー・レイおよびレイのガールフレンドであるモード・デーヴィスと、ロッバーズ・ルースト(Robbers Roost)でいっしょになった。4人はそこに4月前半まで隠れていたが、そのとき、レイとパーカーはその女性らを、次の強盗の計画を立てられるように家に送った。 1897年4月21日、ユタ州のキャッスル・ゲート(Castle Gate)という採鉱町で、パーカーとレイは、鉄道駅からプリーザント・ヴァレー・石炭会社(Pleasant Valley Coal Company)の総賃金を事務所に運搬する小集団の男性たちを待ち伏せして襲い、金貨で7,000ドル入りの袋を盗み、それを持ってロッバーズ・ルーストに逃げ帰った。

1899年6月2日、ギャングはワイオミング州ウィルコックス(Wilcox)近くでユニオン・パシフィックの急行列車を襲ったが、この強盗事件は有名になり、大量の人狩りにつながった。[7][8]当時の多くの法執行者が、強盗をさがすための人狩りに参加したが、見つからなかった。

強盗のあとに続いた法執行者らとの1回の撃ち合いの間に、キッド・カリとジョージ・カリの両者は、保安官ジョー・ヘーゼン(Joe Hazen)を撃ち殺した。雇われ殺し屋として有名で、ピンカートン探偵社の契約社員であるトム・ホーン(Tom Horn)は、爆発物専門家であるビル・スペック(Bill Speck)から、彼らがヘーゼンを撃ったということを明らかにする情報を入手し、それをピンカートンの探偵チャーリー・シリンゴ(Charlie Siringo)に伝えた。ギャングは「壁の穴」のなかに逃げ込んだ。シリンゴは、無法者のギャングを捕える仕事を割り当られていた。 彼はエルフィー・ ランダスキー(Elfie Landusky)と友人になったが、彼女はそのときまでに、キッド・カリの兄弟ロニー・カリ(Lonny Curry)が自分を妊娠させたと主張してカリというラスト・ネームで知られていた。彼女を通じて、シリンゴは、ギャングの居所を探し出すつもりであった。

1899年7月11日、レイその他はニュー・メキシコ州フォルサム(Folsom)近くの列車強盗に関わったが、パーカーがこれを計画したかもしれないし直接にかかわったかもしれないが、これは地元の法執行者らとの撃ち合いになり、パーカーの、秘密を打ち明けられるいちばんの親友であると論証し得るレイが、保安官エドワード・ファー(Edward Farr)と民兵ヘンリー・ラヴ(Henry Love)を殺し、ニュー・メキシコ州重罪犯刑務所で終身刑に服することになった。「ワイルド・バンチ」は強盗につづいてさまざまな方向にむかって分裂し、のちに「壁の穴」の隠れ家、「ロッバーズ・ルースト」、あるいはテキサス州サン・アントニオ(San Antonio)のおかみファニー・ポーター(Fannie Porter)の売春宿のような定められた地点で再結成するのが常であった。「壁の穴」の隠れ家は、ワイオミング州オールド・トレール・タウン(Old Trail Town)で組み立てられている。それは1883年にアレクサンダー・ゲントによって建てられた。[9]

恩赦の企図が失敗する[編集]

レイを失った結果かもしれないが、ユタ州は1896年に連邦に加盟したが、パーカーは、恩赦を取り決めようとユタ州知事ヒーバー・ウェルズ(Heber Wells)に近づいたらしいが、ウェルズは、パーカーにかわりにユニオン・パシフィック鉄道に刑事告発を取下げるように説得するように鉄道に近づくように助言して、このことから後退したらしい。この会合は、しかしながら、実現しなかったが、それはことによると悪天候のためかもしれない。E・H・ハリマン(E. H. Harriman)会長のユニオン・パシフィック鉄道はつぎに、パーカーの盟友である、出所していたマシュー・ウォーナー(Matthew Warner)を通じてパーカーと会おうとした。1900年8月29日、しかしながら、パーカー、ロングボーその他は、ワイオミング州ティプトン(Tipton)近くでユニオン・パシフィックの列車を襲って、パーカーの、その州内で再犯しないというワイオミング州知事との約束を破り、恩赦の見込みを事実上、無くした。

いっぽう、1900年2月28日、法執行者らがキッド・カリの兄弟ロニー・カリを、そのおばの家で逮捕しようとした。 ロニーはその後に続く撃ち合いで殺されたし、彼のいとこボブ・リー(Bob Lee)は窃盗で逮捕され、ワイオミング州内の刑務所に送られた。 民兵らはキッド・カリとビル・カーヴァーに追いつき、彼らを撃ち合いに巻き込み、その間に、保安官代理アンドルー・ギボンズ(Andrew Gibbons)と保安官代理フランク・レスーア(Frank LeSueur)が殺された。カーヴァーとカリは逃げた。4月17日、ジョージ・カリは、ユタ州グランド郡(Grand County)で、保安官ジョン・タイラー(John Tyler)および副保安官サム・ジェンキンズ(Sam Jenkins)との撃ち合いで殺された。

5月26日、キッド・カリは、ユタ州モーアブ(Moab)に騎り込み、タイラーとジェンキンスの両者を、ジョージ・カリの殺害と兄弟ロニーの死亡の報復として、厚かましい撃ち合いで殺した。

パーカー、ロングボーおよびビル・カーヴァーは、ネヴァダ州ウィネマッカ(Winnemucca)に旅行し、そこで1900年9月19日、彼らはネヴァダ州のファースト・ナショナル銀行ウィネマッカを襲って、32,640ドルを奪った。12月、パーカーは、テキサス州フォート・ワース(Fort Worth)で、今や有名なフォート・ワースの5人の写真を撮らせた[10]が、これにはパーカー、ロングボー、ハーヴェイ・ローガン(別名キッド・カリ)、ベン・キルパトリックおよびウィリアム・カーヴァーが写っている。ピンカートン探偵社はその写真を1部、入手し、それを最新の指名手配のポスターに使用した。

キッド・カリはギャングに再加入し、パーカーおよびロングボーとともにモンタナ州ワグナー(Wagner)近くでグレート・ノーザン鉄道を襲った。こんどは、彼らは現金60,000ドルを運んだ。ふたたびギャングは分裂し、ギャング構成員ウィル・カーヴァーは、保安官イライジャ・ブライアント(Elijah Briant)が率いる1人の追跡中の民兵団によって殺された。1901年12月12日、ギャング構成員ベン・キルパトリックはテネシー州ノックスヴィル(Knoxville)で、ローラ・ビュリオンとともに捕えられた。12月13日、法執行者らとの撃ち合い中、キッド・カリはノックスヴィルの警察官ウィリアム・ディンウドル(William Dinwiddle)およびロバート・セーラー(Robert Saylor)を殺し、逃げた。カリは、ピンカートンの探偵らおよび他の法執行者らに追跡されているにもかかわらず、モンタナに戻り、そこで彼は、幾年も前の兄弟ジョニー殺害の責任がある牧場主ジェームズ・ウィンターズ(James Winters)を殺した。[11]

1901年 南アメリカへ旅行する[編集]

パーカーとロングボーはそれからニュー・ヨーク市に逃げ、1901年2月20日、ロングボーの女性友人エセル・「エッタ」・プレースとともに、彼らは、パーカーはプレースの虚構の兄弟ジェームズ・ライアン(James Ryan)を装って、イギリス汽船ハーミニアス(Herminius)に乗ってアルゼンチン、ブエノス・アイレスにむけて出発した。そこで彼は、アンデス近くの、アルゼンチン中央西部のチュブ(Chubut)州チョリラ(Cholila)近くのリオ・ブランコの東岸に彼らが買った、15,000エーカー(61平方キロメートル)の牧場の4室の丸太小屋に、ロングボーおよびプレースとともに、落ち着いた。

1905年と晩年 最大の強盗、法の網を潜る[編集]

1905年2月14日、2人の英語を話す山賊たちが、それはパーカーとロングボーであったかもしれないが、マゼラン海峡近く、チョリラの南方700マイル(1,100キロメートル)、リオ・ガジェゴス(Río Gallegos)のタラパカ・アルゼンチン銀行(Banco de Tarapacá y Argentino)を襲った。少なくともこんにちの100,000アメリカドル相当をもって逃げ、2人組はパタゴニアの荒涼としたステップを横切って北へ姿を消した。

5月1日、 警察が彼らに追いつきかけているので3人組はチョリラの農場を売った。ピンカートン探偵社は少し前に彼らの居所を知っていたが、雨季のために割り当てられた探偵フランク・ディメーオ(Frank Dimaio)はそこに行き、逮捕することができなかった。知事フリオ・レサナ(Julio Lezana)はそのとき逮捕状を出していたが、それが執行される前に、パーカーと親しく、エッタ・プレースに惚れていたウェールズ系アルゼンチン人保安官エドワード・ハンフリーズが彼らに内報した。

3人組は、北のサン・カルロス・デ・バリローチェ(San Carlos de Bariloche)に逃げ、そこで彼らは汽船コンドル(Condor)に乗り、ナウェル・ウアピ湖(Nahuel Huapi Lake)を渡った。しかしながら年末までに彼らはアルゼンチンに戻っていた。12月19日、パーカー、ロングボー、プレースおよび不明の男性(ハーヴェイ・ローガンかもしれない)は、ブエノス・アイレスの西方400マイル(640キロメートル)のビージャ・メルセデス(Villa Mercedes)の国立銀行(Banco de la Nacion )の強盗に参加し、12,000ペソを奪った。武装した法執行者らに追跡されて、彼らはパンパとアンデスを横切り、チリに無事、帰着した。

1906年6月30日、エッタ・プレースは、逃亡生活はもうたくさんだと考え、ロングボーに護衛されてサン・フランシスコに帰った。パーカーは、中央ボリビアのアンデスのサンタ・ベラ・クルス(Santa Vera Cruz)地域のコンコルディア(Concordia)錫鉱山で「ジェームズ・『サンティアゴ』・マックスウェル」(James "Santiago" Maxwell)という別名で仕事を得て、そこで彼は帰ってきたロングボーといっしょになった。皮肉にも、彼らの主たる仕事には会社の総賃金を護衛することもふくまれていた。それでもやはりりっぱな牧場主として落ち着きたくて、パーカーは1907年後半、ボリビア西部のサバンナの辺境都市サンタ・クルス(Santa Cruz)に、ロングボーとともに、旅行した。

死亡[編集]

パーカーの死亡にかんする諸事実は、はっきりとは知られていない。 1908年11月3日、ボリビア南部のサン・ヴィンチェンテ(San Vicente)の近くで、「Aramayo Franke y Cia」銀鉱山の急使が、会社の賃金総額15,000ボリビア・ペソ相当をロバで運搬中に、パーカーとロングボーであると信じられると面を付けたアメリカン人2人の山賊に襲われ、強盗された。山賊たちはそれからサン・ヴィンチェンテという小さい採鉱町に進み、そこでボニファシオ・カサソラ(Bonifacio Casasola)という地元の鉱山労働者が所有する小さな下宿屋に下宿した。左横腹に帯びていたその採鉱会社のロゴからアラモヨ鉱山からのものと確認し得る、彼らが所有していたロバのほかに、外国人の下宿人2人をもカサソラが疑うようになったとき、カサソラは家を出て、近くの電信吏に通知し、電信吏は近くに駐屯する小さなボリビア陸軍騎兵部隊に通報したが、それはアバロア連隊であった。部隊は、ジャスタ・コンチャ(Justa Concha)大尉が率いる兵3人をサン・ヴィンチェンテに急派し、そこで彼らは地元当局に通報した。11月6日晩、下宿屋は、兵3人、警察署長、地元市長とその職員の幾人か取り巻かれたが、彼らはアラモヨ強盗を拘束する意図であった。。

兵3人が家屋に近づいたとき、山賊たちが射撃を始め、兵のうち1人を殺し、もう1人を負傷させた。それから拳銃での撃ち合いが続いた。午前2時ころ、発砲の休止中に警官隊と兵たちは家屋のなかから1人の男性が悲鳴をあげるのを聞いた。まもなく、一発の銃声が家屋のなかから聞え、そののち悲鳴がやんだ。複数分ののち、もう一発の銃声が聞えた。

地元の人々が場所の周囲を包囲していたため膠着状態が翌朝まで続いたが、そのとき、彼らは中にはいると、両腕、両脚に多数の銃創を負った遺体2体を見つけた。男らのうち1人は前額に銃傷があったし、残り1人はこめかみに弾痕があった。地元警察報告の推理によれば、遺体の位置から判断して、1人の山賊が、一時的な共犯者を安楽死させるために撃って致命傷を負わせ、その直後、最後の弾丸で自殺した。

トゥピサ(Tupiza)警察によるこののち続く捜査において、山賊たちはアラモヨ総賃金強盗をはたらいた男たちであると身元が特定されたが、しかしボリビア当局は彼らの本当の名前を知らなかったし、彼らの身元を明確に特定することはできなかった。これらの遺体は小さなサン・ヴィンチェンテの共同墓地に埋葬され、そこでは彼らはグスタフ・ジマー(Gustav Zimmer)というドイツ人鉱山労働者の近くに埋葬された。彼らの印が付けられていない墓を見つけようという試みがなされてきたが、特に1991年のアメリカの法医学人類学者クライド・スノー(Clyde Snow)による試みがなされて、パーカーとロングボーの生存する親戚と合致するDNAを持つ遺物は発見されなかった。この不確定性が、1人または両者が生き延び、結局、合衆国に帰ったという主張につながる。

1908年以降の生存の主張[編集]

しかしながら、パーカーの姉妹ルーラ・パーカー・ベテンソン(Lula Parker Betenson)によるような、彼は合衆国に生還し、無名のまま暮らしたという主張があった。ベテンソンはその『Butch Cassidy, My Brother』で、1908年のずっとあとに彼に会ったパーカーと親しい人々の例をいくつか引用しているし、彼女は、1925年の、ブッチ、兄弟マーク、父マキシ、およびルーラの、詳しい即興の「家庭再結成」を物語る。

1974年または1975年、コラムニストであるレッド・フェンウィック(Red Fenwick)は、『The Denver Post』で、当時『Post』の記者であった著者イヴァン・ゴールドマン(Ivan Goldman)に、自分はパーカーの外科医と知り合いであると語った。フェンウィックは、彼女は絶対に信頼できる人物であると言った。彼女がフェンウィックに語ったところによれば、彼がボリビアで殺されたのち幾年ものあいだ彼女はパーカーを治療し続けた。

ロングボーもまた合衆国に帰り、1936年に死亡したという不確かな状況証拠がある。[12]

ジョン・マクフィー(John McPhee)は、その『Annals of the Former World』で、1930年代に家庭医フランシス・スミス(Francis Smith)医学博士によってデーヴィッド・ラヴ(David Love)に、ラヴが医学生であったときに、語られた物語を繰り返す。スミスが述べたところによれば、彼はパーカーに会ったばかりだし、パーカーはスミスに自分の顔はパリの外科医によって変えられたと語ったし、彼はスミスに、治療された弾傷を示したが、スミスはそれは以前パーカーにほどこしたものと判った。[13]

1960年、アン・バセット(Ann Bassett)の姉妹であるジョシー・バセット(Josie Bassett)はインタビューで、パーカーは「南アメリカから帰ってきたのち」1920年代に彼女のもとを訪れ、また「ブッチは15年ほど前にネヴァダ州ジョニー(Johnnie)で死んだ」と主張した。パーカーの郷里、ユタ州サークルヴィルの地元の人々の別のインタヴューでは、パーカーは死ぬまでネヴァダ州で働いたという主張が見つかる。[14]

アメリカ西部史家チャールズ・ケリー(Charles Kelly)は1938年の著書『Is Butch Cassidy Dead?』の章「Outlaw Trail」を、もしパーカーが「これらのうわさの主張するように、まだ生きているならば、彼が、1938年7月28日に死亡した父マキシミリアン・パーカーのもとを訪れるためにユタ州サークルヴィルに、帰っていないことはきわめて奇妙に思われる」と述べて締めくくった。ケリーはパーカーの父をインタヴューしたと考えられているが、そういうインタヴューの既知の筆記記録は無い。

ワシントン州スポケーン(Spokane)にあるフリーメーソンのロッジ(Lodge。支部)はブッチ・キャシディの小屋(lodge)であると主張される。彼は支部に加入し、死ぬまで活動したと主張される。彼はフィリップス製造会社(Phillips manufacturing company)を所有し、経営した。彼は機械労働の訓練をまったくされたことがなかったから、歴史家どうしの会話で、この話は議論されている。さらにまたこの主張は、支部は記録類が失われたことを示したので、裏付けをすることはできない。しかしながら、この話は、彼がウィリアム・フィリップスであると主張する彼の姉妹によって使用された。[15]

ケリーが、サン・ヴィンチェンテ事件ののちパーカーとロングボーとの両者からの文通はやんだと言ったいっぽうで、1930年や1937年、1938年付けの文通は、公表され、パーカーによって書かれたと言われている。[16]

別名[編集]

  • ブッチ・キャシディ(Butch Cassidy)
  • ジョージ・パーカー(George Parker)[17]
  • ジョージ・キャシディ(George Cassidy)[1]
  • ロウ・マックスウェル(Lowe Maxwell)[1]
  • ジェームズ・「サンティアゴ」・マックスウェル(James "Santiago" Maxwell)[18]
  • ジェームズ・ライアン(James Ryan)[18]
  • ブッチ・キャサディ(Butch Casady)[1]
  • サンティアゴ・ロー(Santiago Lowe)

Alleged friends[編集]

  • William T. Phillips claimed to have known Butch Cassidy since childhood.[19] Some have speculated that Phillips was Butch Cassidy, but no evidence supports the claims.

ウィリアム・T・フィリップス(William T. Phillips)は、子供時代いらいブッチ・キャシディを知っていると主張した。[20] 

参考文献[編集]

  1. ^ a b c d What's Up With All These Names? Bureau of Land Management. 18 January 2008. Accessed 13 June 2008.
  2. ^ Sources - US Federal census, 1920, shows Maximilian Parker's family arrived in the USA in 1856; US census for 1860 shows the Parker family already in Beaver, Utah
  3. ^ Armstrong, Jeremy (2008年12月10日). “Outlaw's mum born & bred on Tyneside”. Daily Mirror. http://www.highbeam.com/doc/1G1-190265260.html 2008年12月10日閲覧. "Geordie lass Ann Sinclair Gillies who was born and bred on Tyneside..." 
  4. ^ The Outlaw Trail. Bureau of Land Management. 18 January 2008. Accessed 13 June 2008.
  5. ^ Betenson, Lula and Flack, Dora, Butch Cassidy, My Brother, Brigham Young University Press, Provo, Utah, 1975.
  6. ^ Idaho State Historical Society: Public Archives and Research Library, inmate files: Henry "Bob" Meeks, #574
  7. ^ “Alleged Train Robber Taken” (PDF). The New York Times. (1899年10月23日). http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?_r=1&res=9F04E0DC1E39E433A25750C2A9669D94689ED7CF 2009年5月26日閲覧。 
  8. ^ Butch Cassidy and Sundance Kid: The Monpelier, Castle Gate, Wilcox and Winnemucca Robberies”. Wyoming Tales and Trails. 2009年5月26日閲覧。
  9. ^ Cody Wyoming: Old West Trail Town, History
  10. ^ ワイルド・バンチ
  11. ^ Gibson, Elizabeth. "Kid Curry, the Wildest of the Bunch." WOLA Journal. Spring, 1999. reprinted at HometownAOL.com.
  12. ^ The Sundance Kid and Henry Long. SundanceKidHenryLong.com.
  13. ^ McPhee, John. Annals of the Former World. 1998. ISBN 0-374-10520-0. p. 358.
  14. ^ “Little left of Butch's life in Circleville”. Deseret News. (2006年7月24日). http://findarticles.com/p/articles/mi_qn4188/is_20060724/ai_n16641373/ 
  15. ^ History of Butch Cassidy, LeRoy Parker from Utah.com
  16. ^ "Last of the Bandit Riders ... Revisited" by Matt Warner and updated by Joyce Warner and Dr. Steve Lacy, Big Moon Traders, Salt Lake City UT 2000
  17. ^ Patterson, Richard. Butch Cassidy's Surrender Offer. HistoryNet.com. February 2006. Accessed 13 June 2008.
  18. ^ a b "Butch Cassidy & The Sundance Kid." The Mythical West: An Encyclopedia of Legend, Lore, and Popular Culture. 2001. reprinted at OurworldCompuserv.com.
  19. ^ Phillips, William T. The Bandit Invincible: The Story of the Outlaw Butch Cassidy. J. Willard Marriott Library. University of Utah. January 1986. Accessed 13 June 2008.
  20. ^ Phillips, William T. The Bandit Invincible: The Story of the Outlaw Butch Cassidy. J. Willard Marriott Library. University of Utah. January 1986. Accessed 13 June 2008.

外部リンク[編集]