カーカティーヤ朝
カーカティーヤ朝(- ちょう、Kakatiya dynasty)とは、11世紀初頭から14世紀初頭にかけてインド南東部(現アーンドラ・プラデーシュ州)に存在したヒンドゥー王朝(1000年 - 1323年/1326年)。首都はワランガル。
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カーカティーヤ朝の歴史 [編集]
後期チャールキヤ朝からの独立 [編集]
ベータ1世(在位1000 - 30)のときに後期チャールキヤ朝に仕える諸侯(封臣)となるが、後期チャールキヤ朝の衰退に乗じて、その曾孫のプローラ2世(在位1110 - 1158)のときに独立した。
カーカティーヤ朝の繁栄 [編集]
プローラ2世の子、プラターパルドラ1世(在位1158 - 1196)と弟のマハーデーヴァ(在位1196 - 1199)は、ヤーダヴァ朝との戦争で戦死し、息子のガナパティ・デーヴァが捕虜になるという屈辱を味わった。
のちガナパティ・デーヴァは許されて帰国して、即位し王(在位1199 - 1262)となると勢力を回復して、ホイサラ朝、ヤーダヴァ朝、パーンディヤ朝とともに衰退するチョーラ朝の版図を草刈り場として蚕食した。また、ガナパティ・デーヴァはその治世においてシヴァ派を保護してその布教を援助する一方、海外貿易の振興に努めることによって国力の増強を図った。
続く女王ルドラーマ・デーヴィ(ルドラーンバー)(在位1262 - 1296)の治世も貿易振興策で経済的に繁栄し、カーカティーヤ朝治下の港を訪れたマルコ・ポーロは、善政とその繁栄ぶりをほめたたえる記録を残している。
ルドラーマ・デーヴィの孫プラターパルドラ2世(在位1296 - 1326)のとき、王国を77地区に分けて、ナーヤカと呼ばれる領主に統治させた。これはのちにヴィジャヤナガル王国のナーヤカ制に大きく影響したという。
デリー・スルタン朝による攻撃と滅亡 [編集]
1310年、ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジーに遣わされた名将マリク・カーフールによって、首都ワランガルが陥落させられ、プラターパルドラ2世は貢納を約束して許された。
のちに勢力を回復し、北はゴーダヴァリー川から南はパーンディヤ朝の弱体化に乗じてカーヴェーリ川下流のティルッチラーッパッリまで勢力下に収める勢いであった。しかし、これはハルジー朝がたまたま南インドを直轄支配しないという条件下のかりそめの繁栄にすぎなかった。
1320年、デリースルタン朝では、ハルジー朝に変わってギヤースッディーン・トゥグルクがスルタンとなりトゥグルク朝が興ると、1323年に南インドの直轄領化を目指して将軍ウルグ・ハーンが遣わされ、たちまちワランガルは失落し、カーカティーヤ朝の版図は併合された。
1326年、プラターパルドラ2世はトゥグルク朝に最後の抵抗を試みるが殺されて、王国は滅亡した。
のち、1336年に成立したヴィジャヤナガル王国の創始者、ハリハラとブッカはこの王朝に仕えていたとされる。
歴代君主 [編集]
※記述なしは、上に記された君主の子であることを示す。
- ベータ1世(Beta I, 在位1000 - 1030)
- プローラ1世(Prola I, 在位1030 - 1075)
- ベータ2世(Beta II, 在位1075 - 1110)
- プローラ2世(Prola II, 在位1110 - 1158)
- プラターパルドラ1世(Prataparudra I, 位1158 - 1196)
- マハーデーヴァ(Mahadeva, 在位1196 - 99)(プラターパルドラ1世の弟)
- ガナパティ・デーヴァ(Ganapati Deva, 在位1199 - 1262)
- ルドラーマ・デーヴィ(Rudrama Devi, 在位1262 - 1296)(ルドラーンバー(Rudramba)とも)
- プラターパルドラ2世(Prataparudra II, 在位1296 - 1326)(ルドラーマ・デーヴィの孫)
参考文献 [編集]
- 『アジア歴史事典』2(オ~キヮ)貝塚茂樹、鈴木駿、宮崎市定他編、平凡社、1959年
- 『世界歴史大事典』(カ~カロ)梅棹忠夫、江上波夫編、教育出版センター、1985年 ISBN 4763239929(縮刷版1995)
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