ギヤースッディーン・トゥグルク
ギヤースッディーン・トゥグルク(? - 1325年、在位:1320年 - 1325年)は、インド北部を支配したトゥグルク朝の創始者。
13世紀後半奴隷王朝の君主で隆盛を誇ったギヤースッディーン・バルバンの時代に下級身分の子として生まれたといわれる[1]。実際、ギヤースッディーンが王朝を築いた際の史料に老将とあることから、かなりの高齢だったことは確かだろう。
奴隷王朝崩壊後、ハルジー朝が成立すると、ギヤースッディーンは同国の将軍となって活躍する。特にモンゴルのチャガタイ・ハン国との戦いでは1304年、1306年に抜群の功績を挙げたことから一躍出世し、パンジャーブ地方の総督にまでなっている。
隆盛を誇ったハルジー朝も、1316年に英主といわれたアラー・ウッディーン・ハルジーが死去すると内紛が起こって急速に衰退する。そして1320年にハルジーの遺児・クトゥブッディーン・ムバーラク・シャーが宰相のホスロー・ハーンに廃されると、ギヤースッディーンはホスロー打倒の兵を挙げた。ギヤースッディーンの軍人としての才覚と経験ではホスローは敵ではなく、[要出典]同年のうちにホスローを殺してハルジー朝を滅ぼし、トゥグルク朝を創設した。
ギヤースッディーンは従来のデリー市街とは別に、新たにトゥグルカーバードという新都の建設を行なった。またベンガルやデカンなどに遠征して成功をおさめるなどして、国家の基礎を磐石にしつつあったが、1325年にデリーに帰還した際、子のムハンマド・ビン・トゥグルクが父の勝利を歓迎するために建設した建物が倒壊したため死亡した。
その死は後継者となったムハンマドによる暗殺とも、デリーの高名な聖者シャイフを処罰しようとしたために呪いで死んだとも言われたというが、真相は不明である。ただ傍証として父の死後、ムハンマドがサイフッディーン・アイバーら父の有力重臣を次々と粛清したのは事実であり、老齢だった父の存在を疎んだ可能性がある。[要出典]
脚注 [編集]
- ^ 家島彦一訳イブン・バットゥータ著「大旅行記」第5巻p14
参考文献 [編集]
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