カティーサーク

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カティサーク

カティサーク(Cutty Sark)は19世紀に建造されたイギリスの快速帆船である。

中国からイギリスまで紅茶を輸送する「ティークリッパー」として、いかに速く一番茶を届けるかを競った。しかしながら、その建造時期はスエズ運河の完成直後であったため、ティークリッパーとして活躍した期間は短い。

カティサークは現存する唯一のティークリッパーとしてロンドン近郊のグリニッジで保存展示されている。

諸元[編集]

  • 全長:86メートル
  • 全幅:11メートル
  • マスト高:15,6メートル
  • 喫水(積載時):7メートル
  • 総トン数 ( gross weight ):936トン
  • 帆の総面積2,972平方メートル
  • 積載量:通常1,325,000ポンド ( 601,010kg ) 、最大積載量は1876年に記録した1,375,364ポンド ( 623,855kg )
  • 乗員:28名

歴史[編集]

ティーレース[編集]

中国とヨーロッパとの貿易を東インド会社が独占していた時代には、紅茶は18ヶ月ないし24ヶ月かけてロンドンまで運ばれてきた。この独占が1834年に終了し、中国のいくつかの港で自由貿易が出来るようになると、多くのヨーロッパの船主が中国貿易に参入してきた。とりわけ、イギリスの国民的な飲物である紅茶をいかに新鮮なまま届けるかには高い関心が集まった。最初に届けられたその年の一番茶は高値で取引され、船主船長は莫大な利益と名誉を得ることができた。

1850年には、ついに年内に新茶が届けられた。12月3日アメリカの新鋭帆船オリエンタル号が、1500トンの新茶を積み込んでロンドンに入港し、船価の2/3にも及ぶ運賃を稼いだのである。このニュースはイギリスにとって大きな衝撃となり、このティーレースに参戦すべく、TaepingLeanderBlackadderHallowe'enThermopylaeといった紅茶輸送のための快速船ティークリッパーが多数建造された。

ティークリッパーは外洋で高速が出せるよう、通常の帆船に比べ前後に細長い形状をしていた。港湾内で小回りの利かないこのような船型が可能となった背景には、蒸気機関を備えたタグボートが普及してきたことが挙げられる。

カティサークの誕生[編集]

カティサークの最初の船主となったジョン・ウィリス ( John Willis ) は1850年代より LammermuirWhiteadder といったティークリッパーをティーレースに参戦させてきたが、勝利することは出来なかった。1868年,ジョン・ウィリスは、Scott & Linton 社に最速のティークリッパーの建造を依頼する。同社のハークレス・リントン ( Hercules Linton ) の設計による船体は高い安定性を有し、他のティークリッパーに比べ荒天時の取り扱いが容易であった。

1869年11月22日ダンバートン ( Dumbarton ) にて進水式がとり行われる。皮肉なことに前週の11月17日スエズ運河が開通したところであり、帆船時代は急速に終焉を迎えようとしていた。

カティサークは、中国からイギリスまで107日から122日で紅茶を輸送することができた。ティークリッパーとして極めて優秀な成績であったが、最短輸送期間の記録を更新することも、ティーレースに勝利することもできなかった。

カティサークの前に立ちはだかったのが、サーモピレーである。1872年、カティサークとサーモピレーは熾烈な競争を演じた。両船共に6月17日上海を出港。カティサークは南東の貿易風を捕らえると、サーモピレーを最大400海里と大きく引き離した。そのような中、8月17日、悪天候によりカティサークはを破損してしまった。応急処置が行われたものの、その間にサーモピレーに追い抜かれてしまった。結局、サーモピレーの115日に遅れること1週間、カティサークは122日でイギリスに到着した。しかし、帆船同士の白熱したティーレースとは裏腹に、この頃を最後に帆船による紅茶輸送は急激に衰退して行くこととなる。

紅茶輸送の衰退後[編集]

帆船は石炭を搭載する必要がないため積載量が大きく、給炭地に寄航する必要もない。また船体に用いているは紅茶を劣化させると信じられていたために、蒸気船が普及した後も、しばらくの間は帆船が紅茶輸送の主役であった。しかしスエズ運河の開通により、状況が大きく変化した。スエズ運河はほとんど無風であり、帆船が通過できないのである。そのため、紅茶輸送の主役も蒸気船へと移行していく。

1878年を最後にカティサークは紅茶輸送を引退し、以後5年間はニューヨークへのジュートの輸送、ロンドンへのバッファローの輸送など、様々な業務に従事した、

1883年以降、カティサークはオーストラリア-イギリス間の羊毛輸送に従事する。同じく羊毛輸送に転用されていたサーモピレーとデッドヒートを演じたが、今度はカティサークが勝者になった。1885年にはシドニーからイギリスまで72日間で航海するという大記録を打ち立てた。1889年には79日間で航海したが、このとき同時に、最新鋭の蒸気船ブリタニア (Britanniaであるが、1887年進水の同名船で、よく知られている1840年進水のブリタニアとは別) を追い抜くという快挙も達成している。

しかしながら、羊毛輸送は紅茶輸送に比べ利益が低く、また船齢を重ねるにつれメンテナンス費用がかさむようになってきた。1895年、ジョン・ウィリスはカティサークをポルトガルに売却。以後27年間に渉り、ポルトガルと南米東アフリカ植民地との間で輸送業務に従事した。ポルトガルではFerreiraと船名が改められたが、カティーサークと同義のA Pequena Camisolaという愛称でしばしば呼ばれた。

1916年、南アフリカへの石炭輸送中に、カティサーク ( Ferreira ) は帆柱を破損してしまった。第一次世界大戦中の資材不足の折でもあり、マストの補修はなされず、2本マスト船に改装されることになった。(それまでは3本マストであった)

英国への帰還[編集]

1922年、イギリス人船長ウィルフレッド・ドウマン ( Wilfred Dowman ) に買い上げられ、再び「カティサーク」と改名された。また、ドウマンの補修により、3本マスト船としての姿を取り戻した。ドウマンの死後、彼の妻によってカティーサークはテムズ大学に寄贈され(1936年)航海学校 ( Incorporated Themes Nautical Training College )で練習船として使用された。1951年にカティーサークトラストに寄贈され、1954年テムズ川に面するグリニッジに移され、保存展示されることになった。保存事業は、カティサークトラストによって行われた。ライバルのサーモピレーが1907年にポルトガル海軍の標的艦として早々と最期を迎えていたのに比べ幸運な晩年を迎えることになった。カティーサークは1957年6月25日から内部も一般公開されロンドン市民に親しまれるようになった。

修復作業と火災事故[編集]

同船は、長らく当地で保存公開され、多くの見学者を集めていたが、野外展示であることから痛みもあり、一時一般公開を中止し、2006年11月より2008年にかけて、2500万UKポンドを投じて大規模な修理と整備をおこなうこととし、あわせて、船の内外装を、もっとも魅力的だったとされる1869年建造当時の状態に復元すべく、その作業が開始された。

ところが、2007年5月21日、午前4時45分頃、カティサークの船体より火災が発生した。消防車8台・消防士40人が出て消火に当たったが、火は1時間半以上燃え続け、午前6時28分頃漸く鎮火するも、鋳鉄製のフレームを残して多くを焼失する被害を生じた。旧式木造船の構造上、防水用のワックスが大量に使用されていたため木製の構造材は消失したものの、さいわいなことに分解修理中だったこともあり、マストやデッキの木材、船首像など装飾類はすでに取り外されて別の場所で修理を受けていたため、焼失はもとの船体全体の10%程度、オリジナル部分の2%程度と比較的小規模で済んだ。復元の可否を判断するには、燃え残った鉄製フレームの強度などの調査が必要とされる。なお、出火が人気のない未明であったことから、ロンドン警視庁不審火の疑いもあるとみて捜査していていたが、最終的には作業現場に放置されていた掃除機の電源の消し忘れによる発火(失火)と確定された。

その後修復作業が再開され、2012年4月25日、女王エリザベス2世によって一般公開の再開が宣言された。修復作業前の長年の乾ドックでの展示の結果、竜骨へ多大な負荷がかかり、船底の形の変形が認められたことから、船体を3メートル持ち上げてドックの側面からの支柱で支える形になっており、観光客は入場料を払えば船内や甲板だけでなく、船底を下から見上げることが出来る。

船名の由来[編集]

カティサークの船首像

カティサーク (Cutty Sark) とは、スコットランド語で短い (Cutty) シュミーズ (Sark) を意味し、ロバート・バーンズ (Robert Burns) 作の「タモシャンター」Tam o' Shanter に登場する魔女に由来する。

農夫のタムが馬にのって家路を急いでいると、悪魔や魔法使いが集会をしているところに出くわした。そこでタムは、カティサークを身にまとった若くて妖艶な魔女に魅了され、思わず手を出そうとした。そのとたん、にわかに空が暗くなり、魔女たちがタムを捕まえようとした。タムはにまたがり、命からがら逃げ出した。カティサークの魔女は馬の尾をつかまえたものの、尾が抜けてしまったため、タムは逃げのびることができた。

カティサーク号の船首像はカティサークを身にまとった魔女であり、その手には馬の尾が握りしめられている。

参考資料[編集]

外部リンク[編集]