オルタナティヴ・ミュージック
オルタナティヴ・ミュージック (alternative music) とは、現在の商業的な音楽や流行音楽とは一線を引き、時代の流れに捕われない普遍的なものを追い求める精神や、前衛的でアンダーグラウンドな精神を持つ音楽シーンのことである。しばしばロックの一ジャンルとして思われがちであるが、厳密にはジャンルではない。「alternative」とは英語で、通常「代わりの」「代用の」「もう1つの選択」という意味であるが、「型にはまらない」という意味もある。本来は音楽的な特徴や性格をあらわす言葉としては使わないのが普通だが、この場合は後者の「型にはまらない」あるいは「既存のポップ・ミュージックの概念を打ち壊す」という意味で「alternative」が使われている。
オルタナティヴ・ミュージックとは、ポップ・ミュージックの対義語として使用できるが、時代の流れやある種のメディアなどによって過剰に取り沙汰され、メインストリーム、いわゆる、ポップ・ミュージックになってしまうこともある。その場合、オルタナティヴ・ミュージックではないと言える。このどちらか一方が上がっているとき、どちらかは下がっていて、それらが常に入れ替わりながら続いていく関係というのは、美術の概念でいう「現代美術」と「前衛美術」の関係に非常に類似している点がある。
- ロックシーンのオルタナティヴ・ミュージック=オルタナティヴ・ロックに関しては同項を参照。
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[編集] 1980年代USオルタナシーン
アンダーグラウンドな音楽活動は地域や時代を問わず存在したと考えられるが、1980年代の北アメリカ諸都市におけるパンク由来の音楽活動の特徴を、カナダの音楽社会学者ウィル・ストロー (Will Straw) は、「シーン」scene という概念で、従来の(エスニックな)「コミュニティー」に根ざしてアンダーグラウンドにまで連なる(たとえば)ダンス音楽と対比して論じている。[1]1980年代半ばまでに、北アメリカの都市部にはローカルなハードコアパンク・コミュニティが成立し、地域限定のインフラ(レコードリリースやラジオ放送)を利用した音楽活動が行なわれるが、その構成員はそれ以前から存在するレコード・コレクター層(主として男性)と重なり合っており、メインストリーム音楽史的には過去のものとなった音楽的要素をさまざまにミックスすることによって生まれる音楽的な多様性が許容され、必ずしも音楽的共通性を根拠としない「シーン」が成立していった。これらの諸シーンは、あくまでローカルなものでありながらも、特に必然的な地域性なしに各地で同様な経過で発生したため、各バンドは諸都市間を移動する活動によっても類似の聞き手を期待でき、この結果、特に相対的優位性が生じることなく各地で起きた新しい試みがさまざまな方向に、場合によっては国境を越えて拡散していったとする。この点で、新しい音楽が古い音楽を淘汰し、その都度、その方向性についての理由付けが行なわれるメインストリームやそれに類似する音楽シーンと異なる、とするのである。しかし、この論文が出版された1991年には、これらのシーンから生まれた音楽がメインストリームに取り入れられており、やがて一大ジャンルとしてそれまで主流だったポップ音楽を淘汰していくことになる。
以下、80年代北アメリカのハードコア/オルタナティヴシーンのうち、90年代以降まで影響を残したと考えられるものを中心に取り上げる。
[編集] 南カリフォルニア
巨大都市ロスアンジェルスはニューヨークと並ぶ音楽産業の中心であり、1970年代以前から「アンダーグラウンド」の規模も大きくその音楽的内容・活動姿勢ともに多様な音楽活動を包含したと考えられ、単一のローカルシーンとみなすことはできない。しかし、その中で1970年代後半の、ニューヨークやロンドンと比べてローカルであったニューウェーヴ・パンクシーンからさらにロスアンジェルス郊外のハードコア・パンクシーンが枝分かれしていく過程は、1977年に高校生のファンジンとして創刊された『フリップサイド』(en:Flipside (fanzine))によく記録されている。当初はニューヨークやロンドンのバンド公演の合間に登場するだけだった地元バンドが増えると共に、「アート系対ストリート系」、「ヒッピーパンク対サーフパンク」といった色分けがなされるようになる。「ストリート系」「サーフパンク」は、ロスアンジェルスのサウスベイやオレンジ・カウンティなど郊外の未成年者を指し、これらのライブハウスで問題を起こしやすい層に人気のブラック・フラッグ、ミドルクラスといったバンドはやがて都心のライブハウスからは締め出され、郊外各地の常設・臨時のライブ会場を拠点として「ハードコア・シーン」が形成されていくことになる。注目すべき点は、これらの色分けがあくまで聴き手の分類であって、ミニットメンやレッドクロス、あるいはTSOLといったバンド自体の音楽は、ニューウェーブ・ポストパンクやメタルなどさまざまな要素を含んでいた、という点である。新たに参入したディセンダンツはサーフポップのメロディーをこの地域のハードコアに持ち込んだ。
ロスアンジェルスでのライブの機会が限られる中、知名度の高かったブラック・フラッグやミニットメンは頻繁にツアーを行ない、アメリカ各地にハードコアシーンが形成される契機を作った。ブラック・フラッグの自主レーベルSST・レコードは、LAで親交のあったバンドだけでなく、これらのツアー活動を通じて知り合ったアリゾナのミート・パペッツ、ミネアポリスのハスカー・ドゥ、ニューヨークのバッド・ブレインズ、ソニックユース、ダイナソーJr.といったバンドの作品をリリースし、1980年代の代表的なUSオルタナティヴ・インディー・レーベルとして知られる。
ロスアンジェルスは映画産業の中心地でもあり、映画に登場したり映画音楽に起用されたりしたバンドも多い。1980年代初期のハードコア・シーンをよく伝える映画としては、オレンジ・カウンティーのハードコアバンド、ソーシャル・ディストーションとユースブリゲードが1982年スクールバスを改造したツアーバスで試みた全米ツアーを中心とする映画『アナザー・ステート・オブ・マインド』や、1984年のフィクション『サバービア』がある。
1984年にはハードコア・ブームはピークを迎え、ロスアンジェルスでも地元のイヴェンターGoldenvoiceが、各地の人気バンドやUKハードコアのバンドをヘッドライナーとしてオリンピック・アリーナのような大きな会場で頻繁にイヴェントを開催するようになる。このような、メインストリーム的なハードコア・パンク・イヴェントからは地元のバンドの多くが締め出され、様式化したハードコア・パンクと各地のハードコア・シーンの乖離が進んでいたことを『フリップサイド』は伝えている。1980年代半ばにはロスアンジェルスはグラム・メタル、次いでスラッシュ・メタルといったメタルのメインストリームでのブームの中心として各地から集まったアンダーグラウンドなバンドの活動が盛んになっており、パンクバンドの演奏機会は失われていた。しかし、1980年代末からバッド・レリジョンとそのレーベルエピタフ・レコードのメロディック・ハードコアが人気を集め、1990年代パンク・リバイバルの中心の一つとみなされるようになった。
[編集] サンフランシスコ・ベイエリア
ロスアンジェルスと密接な関係にある地域であり、パンク・ニューウェーヴのライブハウスとしてマブヘイ・ガーデンズが知られ、ブラック・フラッグやサークル・ジャークスといったバンドが早い時期から頻繁にツアーを行なっている。1978年結成の地元のバンドデッド・ケネディーズは、自主レーベルオルタナティヴ・テンタクルズを立ち上げ、東海岸へのツアーを行なうなど、早くから知名度をあげ世界的に知られるようになり、ジェロ・ビアフラ(v.)はパンクの反体制・反商業主義的主張の代弁者として積極的に発言する。バークリーの公共放送KPFAの音楽番組マクシマムロックンロールのティム・ヨハナン(en:Tim Yohannan)は、オルタナティヴ・テンタクルズからカリフォルニア北部のパンクバンドのサンプラーをリリース、この48ページのライナーが、世界的に知られるようになるパンク誌『マクシマム・ロックンロール』の創刊号となる。当初からこの雑誌のカラーとして、オルタナティヴな価値観を目指すパンク思想がアピールされた。1986年にはオルタナティヴ・ミュージック・ファウンデーションを設立し、自主運営ライブハウス・ギルマンをオープンする。ギルマンは、ベイエリアのパンクシーンの中心として、グリーン・デイ、ジョーブレーカー、サマイアムといったバンドの活動拠点となった。日本のバンドでも原爆オナニーズ、ビヨンズ、ガーゼ (バンド)などがアメリカ・ツアーでこの会場を選んでいる。ただし、『マキシマム・ロックンロール』を単にパンク音楽誌とみなすことはできない。その大量のレビューにはハードコア・パンク全盛期の草創期から、ポストパンク、サイケデリック、ノイズ、あるいはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの再発、ビースティー・ボーイズのラップなど、典型的なパンク以外の音楽もしばしば好意的に評されている。イギリスの極右バンド、スクリュードライヴァーのOi!作品も、政治的に受け入れ難いことは認めながらも音楽的な評価は高い。1984年からは日本のバンドも登場し、少年ナイフやハナタラシなども紹介されている。
[編集] ワシントンD.C.
地元レコード店主のスキップ・グロフにより1978年に自主制作で出された、ハーフ・ジャパニーズを含むニューウェーヴ・バンドのコンピレーション 30 Seconds over D.C.:Here Comes the New Wave!が、ニューヨークからの独立宣言とも言える地元バンド作品である。グロフが設立を助けたティーン・パンクスによるディスコード・レコードも、ニューヨークの影響を克服して「D.C.を地図に載せる」ことがテーマとなった。このティーンパンクスに大きな影響を与えたのが、ジャズ・フュージョンから転向したアフリカ系アメリカ人パンクバンド、バッドブレインズの「ポジティヴ・メンタル・アティテュード (PMA)」と超高速のスラッシュ・スタイルである。バッドブレインズは後にニューヨークに本拠を移し、東部のハードコア・バンドとしては初めて全米ツアーを行なって人気バンドとなる。さらにマイナー・スレットをはじめとするティーンパンクスがharDCoreを名のり一斉にスラッシュ・パンクを採用するに及んで、『フリップサイド』や『マクシマム・ロックンロール』を通じて「DCシーン」は全米のパンクシーンに知れ渡った。しかし、バッドブレインズはボーカルH.R.がレゲエへの傾倒を強め、また、1983年のマイナースレット解散後、ディスコードのバンドもさまざまな音楽的実験を開始するため、DCシーンが音楽スタイルに結び付けられた期間は短かった。1985年設立のティーンビートなどポップ・レーベルも加わり、社会団体Positive Force が毎年開催するオルタナティヴズ・フェスティバルをはじめとした音楽を通じた社会運動の企画を軸として「シーン」が再定義されていくことになる。
[編集] ボストン
ミッション・オブ・バルマ、ボストン・ハードコア
[編集] デトロイト
ストゥージズ、MC5、タッチ・アンド・ゴー、ネクロス、ネガティヴ・アプローチ
[編集] ミネアポリス/セントポール
[編集] シカゴ
エフィジーズ、ビッグ・ブラック、スティーヴ・アルビニ、ネイキド・レイガン、ジーザス・リザード
[編集] シアトル/オリンピア
K レコード、サブ・ポップ
[編集] オルタナティヴ・ミュージックと見なされる音楽
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献と外部リンク
- Punk Zine Archive! FlipsideやMaximum Rocknroll が読める。
- Flipside Fanzine Memorial Website LAの初期パンクGIGのデータベース作成中。
- Hüsker Dü Database Hüsker Düのライブデータ、インタビュー、文献リストなど。
- Mark Anderson & Mark Jenkins Dance od Days: Two Decades of Punk in the Nation's Capital 2001. Soft Skull Press.
[編集] 脚注
- ^ Straw, Will (1991). "Systems of Articulation, Logics of Change: Communities and Scenes in Popular Music", Cultural Studies, 5, 3, pp.368-88。en:Maximum RocknrollのScene Reportsを例示しており、「シーン」はこの用法に基づく概念であるとみられる。これより創刊の早いロスアンジェルスのファンジンen:Flipsideは1978年にはL.A.Scene という表現を用いており、1979年には「オレンジ・カウンティの二つの'scenes'」というような用法が現れている。