エルンスト・ヴィリモフスキ

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エルンスト・ヴィリモフスキ Football pictogram.svg
Mecz Warta Ruch 1937.jpg
名前
本名 エルンスト・オットー・ヴィリモフスキ
愛称 Ezi
ラテン文字 Ernst Willimowski
基本情報
国籍 ポーランドの旗 ポーランド
ドイツの旗 ドイツ
生年月日 1916年6月23日
出身地 カトヴィツェ
没年月日 1997年8月30日(満81歳没)
身長 172cm
体重 68kg
選手情報
ポジション FW
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1927-1934
1934-1939
1939-1940
1940-1942
1942-1944
1946-1947
1948-1950
1950-1952
1952-1953
1953-1955
1956-1959
ポーランドの旗1.FCカトヴィツェ
ポーランドの旗ルフ・ホジューフ
ポーランドの旗1.FCカトヴィツェ
ナチス・ドイツの旗PSVケムニッツ
ナチス・ドイツの旗TSV1860ミュンヘン
Flag of Germany (1946-1949).svgSGケムニッツ・ヴェスト
Flag of Germany (1946-1949).svgFCアウクスブルク
ドイツの旗オッフェンバッハーFV
ドイツの旗FCジンゲン04
ドイツの旗VfRカイザースラウテルン
ドイツの旗ケーラーFV
代表歴
1934-1939
1941-1942
ポーランドの旗 ポーランド
ナチス・ドイツの旗 ドイツ
22 (21)
8 (13)
1. 国内リーグ戦に限る。
テンプレート(ノート 解説)サッカー選手pj

エルンスト・ヴィリモフスキ(Ernst Willimowski、本名:エルンスト・オットー・ヴィリモフスキ 、Ernst Otto Willimowski、1916年6月23日 - 1997年8月30日)は、ポーランドの元サッカー選手。ポジションはFW

人物[編集]

ドイツ帝国のシュレージエン州カトヴィツェの出身。第一次世界大戦後に締結されたヴェルサイユ条約によりカトヴィツェ周辺地域がポーランドへ割譲されると、ポーランド国籍、1939年のナチス・ドイツ侵攻後は再びドイツ国籍となった。また、当初はエルンスト・オットー・ブラデルラという名前であったが、ドイツ帝国軍兵士の父親が西部戦線で戦死すると、13歳の時に母親が再婚し、再婚相手の姓のヴィリモフスキを名乗った。

選手時代には主に左のフォワードとしてプレー。熟練したドリブルテクニックと得点能力を併せ持ち、ポーランド代表と国内のリーグ戦において多くの得点を記録した。また、FIFAワールドカップ史上初めて一試合4得点を決めた選手でもある。

サッカーだけでなく、アイスホッケーなどの素養もあり、地元カトヴィツェのスポーツクラブで時折プレーをした。

経歴[編集]

ポーランド時代[編集]

ヴィリモフスキは1.FCカトヴィツェで選手キャリアをスタートした。1933年に17歳でルフ・ホジューフへ移籍すると、入団初年度にリーグ戦で33得点を記録し、ポーランド国内での名声を確立した。ホジューフでは中心選手として5度のリーグ優勝(1933年、1934年、1935年、1936年、1938年)に貢献、彼自身も1934年と1936年にリーグ得点王となるなど通算86試合に出場し112得点を記録した。また、1939年5月21日のUTウーチとの試合では1試合10得点(試合は12-1でホジューフの勝利)を決めた。この記録は現在もポーランドリーグの1試合最多得点記録となっている。

ポーランド代表としては1934年5月21日、敵地のデンマーク戦で代表デビュー(試合は2-4で敗退)、17歳11ヶ月でのデビューであった。1938年のFIFAワールドカップ・フランス大会、対ブラジル戦で4得点を記録した(試合は5-6で敗退)。この記録には、その後の大会で数人の選手が並んだが、56年後の1994年FIFAワールドカップ・アメリカ大会ロシアオレグ・サレンコ(1試合5得点)によって塗り替えられた。

1939年8月27日、ホームのワルシャワで行われたハンガリーとの親善試合。1938年のワールドカップ準優勝国のハンガリーに対し前半33分までに0-2のリードを奪われたが、ヴィリモフスキのハットトリックなどで4-2で逆転した。この試合の4日後には第二次世界大戦が始まったため、彼がポーランド代表としての最後の試合となった。

ポーランド代表としては国際Aマッチ22試合出場21得点を記録した。

ドイツ時代[編集]

ナチス・ドイツの侵攻によりポーランドが分割されると、彼はドイツの市民権を再び取得し、警官となった。これは兵役の義務を回避する支援となると共に、ナチス占領下でスポーツ参加を禁止していた状況下で、サッカー選手として活動することの免除ともなった。クラブレベルでは1.FCカトヴィツェ、PSVケムニッツ、1942年からはTSV1860ミュンヘンへ移籍し、同年のDFBポカール優勝に貢献した。

ドイツ代表としても、監督のゼップ・ヘルベルガーが彼の才能を評価し代表へ招集。1941年6月1日のルーマニア戦で代表デビュー。1942年11月22日のスロバキア戦までに国際Aマッチ8試合出場13得点を記録した。

その後[編集]

戦後に誕生した共産主義政府からは、ヴィルモフスキは裏切り者とみなされ、故郷へ帰ることを認められなかった。彼は西ドイツのカールスルーエに移り住み、レストランを経営する傍ら、複数のクラブを渡り歩き43歳までプレーを続けた。冷戦崩壊後の1995年、選手時代に成功を収めたルフ・ホジューフのクラブ創設75周年記念日に招待をされたが、妻の病気などもあって実現することはなかった。

1997年8月30日、カールスルーエで死去、81歳没。

個人タイトル[編集]

外部リンク[編集]