アメア・ディリック

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アメア・ディリック Tennis pictogram.svg
Amer Delic 2007 Australian Open mens doubles R1.jpg
アメア・ディリック
基本情報
ラテン文字名 Amer Delic
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 ボスニア・ヘルツェゴビナ
出身地 ボスニア・ヘルツェゴビナ
トゥズラ
居住地 アメリカ・ジャクソンビル
生年月日 1982年6月30日(32歳)
身長 196cm
体重 93kg
利き手
バックハンド 片手打ち
ツアー経歴
デビュー年 2003年
ツアー通算 0勝
生涯獲得賞金 $849,270
4大大会最高成績・シングルス
全豪 3回戦(2009)
全仏 1回戦(2007)
全英 2回戦(2007)
全米 2回戦(2004)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 2回戦(2007)
全仏 1回戦(2007)
全英 2回戦(2007)
全米 3回戦(2005・07)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全米 1回戦 (2005~07)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 60位
ダブルス 74位
2010年9月19日現在

アメア・ディリックAmer Delic, 1982年6月30日 - )は、ボスニア・ヘルツェゴビナトゥズラ出身の男子プロテニス選手。右利き。ATP自己最高ランキングはシングルス60位、ダブルス74位。デビュー時から2010年8月まではアメリカ国籍でツアーを転戦していたが、同年9月からはボスニア・ヘルツェゴビナ国籍に変更して活動している選手である。196cmの長身から繰り出す強烈なサーブを持ち味にする。

来歴[編集]

ボスニアで航空管制官をしていた父ムハレムと会計士であった母サディナの間に2人兄妹の長男として生まれ[1]、5歳の時に父から木製ラケットをプレゼントされテニスを始める。しかし1992年ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発、1995年5月には故郷トゥズラがセルビア人勢力に包囲され、70名以上の若者が殺害されたトゥズラの虐殺を目の当たりにする[2]。これを期に当時13歳のディリックと家族は戦争で疲弊した祖国を逃れ、1996年に僅か4つのスーツケースと1000ドル余りの全財産を手にアメリカに渡り、フロリダ州ジャクソンビルに移住[1][2]。後にアメリカ国籍を取得した。移住直後のディリック一家の生活は困窮を極め、1ヶ月後には財産も底を付き、家族はフードスタンプの受給を受けながら生活する苦しい時期を送った。しかしそんな中でも両親は移住後もテニスを続けた息子の為に、ピザ屋や住宅ローン会社の仕事を掛け持ちしながら費用を工面しテニス用具を買い与えるなどアメアを支援。その後高校テニス界で頭角を現したアメアは、1999年に大学スポーツの名門として知られるイリノイ大学元テニス部監督に見出され2000年に同大へ入学[2]。ここでは大学2年次から頭角を表し、2003年にはNCAA男子テニス選手権においてイリノイ大として初のシングル部門、チーム部門との優勝を果たす。これらの活躍により、2001年から2003年まで3年連続でディビジョン1の年間ベスト選手が選出されるオールアメリカンチームに選出[3][4][5]、2003年にはビッグ・テン・カンファレンスに所属する最も優れた男子大学スポーツ選手に与えられるビッグ・テン・アスリート・オブ・ザ・イヤーを、同賞創設以来テニス選手として初めて受賞。名実共に全米大学スポーツ界のトップ選手としてその名を馳せた。

プロ転向後[編集]

2003年~2005年[編集]

2003年にプロ転向。8月の全米オープンシングルスではNCAAシングルス王者として主催者推薦で出場。1回戦で当時世界ランク52位のサルギス・サルグシアン相手に6-4,3-6,7-6(3),2-6,5-7のフルセットで惜敗した。この年は7月のインディアナポリス・テニス選手権シングルスにも主催者推薦で出場、2回戦のパラドーン・スリチャパン戦まで進出した。

2005年ジェフ・モリソン(アメリカ)とペアを組み、主催者推薦で出場した全米オープン1回戦で、第5シードのリーンダー・パエス&ネナド・ジモンイッチ組を7-6(6), 7-6(2)のストレートで下す活躍で、第11シードのジョナサン・エルリック&アンディ・ラム組との3回戦まで進出した。

2006年~2007年[編集]

2006年はデリックにとって躍進の年となり、下部ツアーのチャレンジャー大会シングルスで2優勝4準優勝、ダブルスでも2準優勝の好成績を挙げる。この活躍によりシングルス年度末ランクを93位で終了し、自身初のトップ100フィニッシュを果たす。

2007年からツアー大会を本格的に回るようになり、シングルスでは予選を勝ち上がって出場した3月のマイアミ・マスターズシングルスでは、3回戦で当時世界ランク4位のニコライ・ダビデンコを7-6(5),6-3のストレートで下した事により注目を集める[6]。続く4回戦ではフアン・イグナシオ・チェラ3-6,2-6のストレートで敗れものの、これらの活躍により7月9日付のATPランキングで自己最高位の60位を記録する。しかしシーズン後半では前年のポイントを防衛することが出来ず、年度末ランクも140位に下げて終了した。この年はダブルスでも好成績を残し、ジャスティン・ギメルストブ(アメリカ)とのペアでノーシードで出場した全米オープンでは、2回戦で第16シードのエリック・ブトラック(アメリカ)&ジェイミー・マレー組を7-5,6-3のストレートで下し、第2シードのマーク・ノールズ&ダニエル・ネスター組との3回戦まで2年ぶりに進出。この年は他にも全豪オープンウィンブルドン選手権でも2回戦に進出、ツアーでも3度ベスト4進出を果たす等の活躍で年度末ランクを86位で終了。自身のダブルスキャリアにおいて最高の年となった。

2008年~2009年[編集]

2008年はツアーシングルスで好成績を収め、年初の全豪オープン予選を勝ち上がり、大会第21シード、当時世界ランク23位のフアン・モナコとの2回戦まで進出。3-6,6-7(6),7-5,7-6(8),6-8のフルセット、4時間11分のロングマッチの末惜敗した。予選勝ち上がりで出場した3月のテニス・チャンネル・オープンでは、2回戦で第5シードのポティト・スタラーチェを下す活躍で第4シードのギレルモ・カニャスとの準々決勝まで進出。8月のファーマーズ・クラシックでも予選を勝ち上がってベスト8まで進出した。またチャレンジャー大会でも2優勝したが、ツアーの予選敗退やCHの1回戦敗退も多く、年度末ランクは136位と前年よりわずかに上昇するに留まった。

2009年全豪オープンシングルス予選決勝でフロリアン・マイヤー(ドイツ)に0-6,7-6(3),0-6のフルセットで敗れたが、本戦出場選手の中から欠場者が出たことにより予選繰り上がりで本戦に出場。1回戦では、長期欠場から復帰したテーラー・デントを 6-4,3-6,3-6,6-3,6-4のフルセットで破り、2回戦でも第28シードのポール=アンリ・マチューを1-6,3-6,6-3,7-6(3),9-7の大逆転で倒した。2試合連続でフルセットを戦ったディリックは、初進出の3回戦で前年度優勝者の第3シード、ノバク・ジョコビッチ(セルビア)に 2-6,6-4,3-6,6-7(4)で敗れた。また試合後にはセルビア系とボスニア系の観客同士で暴力事件が発生し、巻き添えを受けた女性が負傷、3名が逮捕され30名が会場から追放される事件が起こっている[7][8]。その後もマスターズ大会で予選を勝ち上がるなどまずまずの成績を残していったディリックだったが、膝蓋骨を負傷し、7月のキャンベル・テニス殿堂選手権1回戦でニコラ・マユに4-6,4-6のストレートで敗れたのを最後に長期のツアー離脱を余儀なくされる。ディリックは治療を受けリハビリを行う傍ら、プロ転向に伴い休学状態にあったイリノイ大に再度通い、翌2010年5月にスポーツ学、観光学、レクリエーションの学士号を得て卒業した[1]

2010年[編集]

その後もリハビリを続けたディリックは同年の全米オープンシングルス予選で主催者推薦を受けてツアーに復帰。翌9月にはツアーでの所属国籍をボスニア・ヘルツェゴビナに変更、直後に行われたデビスカップ2010ヨーロッパ/アフリカゾーン・グループⅡ準決勝、対ポルトガル戦でボスニア・ヘルツェゴビナ代表に選出され出場した。

脚注[編集]

  1. ^ a b c Double blessing for Amer Delic”. The News Gazette. 2010年9月19日閲覧。
  2. ^ a b c ABOUT AMER: Wildest dreams are just the beginning”. アメア・ディリック公式サイト. 2010年9月18日閲覧。
  3. ^ 2001 ITA All-America Teams”. ITA. 2010年9月18日閲覧。
  4. ^ 2002 ITA All-America Teams”. ITA. 2010年9月18日閲覧。
  5. ^ 2003 ITA All-America Teams”. ITA. 2010年9月18日閲覧。
  6. ^ Delic Stuns No. 4 Seed Davydenko”. ヘラルド・トリビューン (2007年3月27日). 2010年9月18日閲覧。
  7. ^ Scuffles at the Australian Open”. 新唐人電視台 (2009年1月24日). 2010年9月19日閲覧。
  8. ^ Tennis Hooligans?”. ニューヨーク・タイムズ (2009年1月23日). 2010年9月19日閲覧。

外部リンク[編集]