さんとす丸級貨客船

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さんとす丸級貨客船
「さんとす丸」(1940年)
基本情報
船種 貨客船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 大阪商船
運用者 大阪商船
 大日本帝国海軍
建造所 三菱造船長崎造船所
母港 大阪港/大阪府
建造期間 1925年 – 1926年
就航期間 1925年 – 1945年
計画数 3隻
建造数 3隻
前級 たこま丸級貨客船(航路就航船としての前級)
次級 ぶゑのすあいれす丸級貨客船
要目
総トン数 7,266トン
垂線間長 131.08m
型幅 17.07m
型深さ 10.97m
高さ 24.68m(水面からマスト最上端まで)
16.15m(水面から煙突最上端まで)
主機関 ディーゼル機関 2基
推進器 2軸
定格出力 4,600BHP
最大速力 16.0ノット
航続距離 不明
積載能力 2,087トン
船ごとのデータは「要目一覧」参照
高さは米海軍識別表[1]より(フィート表記)。
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さんとす丸級貨客船とは、大阪商船が運航した貨客船のクラスの一つで、1925年(大正14年)から1926年(大正15年)の間に三菱長崎造船所で建造された。日本における初期のディーゼル船で、外航貨客船の分野では最初のクラスとなった。また、最初から移民船として建造された貨客船のクラスでもある。

本項では、主に建造までの背景や特徴、技術的な面などについて説明し、船歴については略歴の形で一覧としてまとめている。単独項目として作成されている船に関しては、そちらも参照されたい。

建造までの背景[編集]

移民の形態のうち、海を渡る規模の移民が始まった時期は定かではないが、アメリカ大陸の発見以降ととらえる見方がある[2]ヨーロッパからアメリカへ、またアジアアフリカからヨーロッパやアメリカへの各種移民が行われた。日本においても同様で、日本からハワイ、アメリカおよび南アメリカへの移民が明治維新以降行われるようになった。いわゆる「移民船」の発祥も厳密には定かではないが、1620年に迫害から逃れるためにイギリスからアメリカに旅立つピルグリム・ファーザーズを乗せた「メイフラワー号」は、一種の移民船であると言える。

移民船も、大は「タイタニック」から小は諸々と有名無名あわせて多数あったが、その船内環境にはばらつきがあった。コメディ映画ではあるが、自身もイギリスからの移民であったチャーリー・チャップリン[注釈 1]の『移民』(1917年)でも、移民たちが大きく揺れる船内で翻弄される様子が描写されている。こういった、移民に対して船内環境がよろしくない移民船は、「人間を運ぶ貨物船」として否定的な見方をされていた[3]。特に、1912年の「タイタニック」沈没では乗船していた移民の多くが船と運命をともにしたのが契機の一つとなり、以降、特に移民に関わる国は四方の声に押される形で移民船の改善に乗り出すこととなった[3]。すでに「山城丸」(共同運輸、2,528トン)や「笠戸丸」(東洋汽船、6,000トン)[注釈 2]などといった移民船を出していた日本も関係会議に官僚を参加させていたが、日本の関連法律とブラジルなど受け入れ各国の関連法律との間に食い違いを見せるようになった[3]。具体的には、日本では1896年(明治29年)公布・施行の「船舶検査法」[4]を根拠に旅客船を含めた船舶にさまざまな規制項目を定めていたが、法律とその実効性や現実の流れに乖離が生じてきたということであり、また「移民船の改善に応えなかった」、ということである[3]

西回りの南米航路を開設していた大阪商船が、さんとす丸級貨客船を整備することになった要因としては、国策で南米移民が大きく推進されたこと、また、1920年(大正9年)10月に西回り南米航路が命令航路に指定され、これを機に就航船の刷新を図ったことがある[3][5][6]。その延長線上で、抜本的な移民船改善の風潮に乗っかったと言えよう[3]。上述の法律の食い違い問題などが長引けば、せっかくブラジルなどの港に到着しても現地の法律に適合していないため、立ち往生する可能性もはらんでいた[3]。大阪商船は、ブラジルなどからの締め出しを警戒して、あえて「船舶検査法」の規定を上回る、相手国の法律に適応する貨客船を整備して風潮に応えた[3]。これが、さんとす丸級貨客船の建造の背景の一つであった[3]。さんとす丸級貨客船の出現に関係官僚はよい顔をしなかったと伝えられるが[3]、ともかく、日本における移民船の質が改善されることとなった。なお、さんとす丸級貨客船の建造数は計画では5隻だったようで、削減した2隻は後年、ぶゑのすあいれす丸級貨客船ぶゑのすあいれす丸りおでじゃねろ丸)として竣工した[7]

一覧[編集]

さんとす丸級貨客船一覧表
船名 起工 進水 竣工 備考
さんとす丸/満珠丸 1925年1月5日 1925年9月5日 1925年12月10日 1941年改名
らぷらた丸/干珠丸 1925年3月30日 1925年12月17日 1926年4月20日 1941年改名
もんてびでお丸 1925年9月9日 1926年4月15日 1926年8月14日

特徴[編集]

大阪商船は、さんとす丸級貨客船建造に際してその主機関にディーゼル機関を採用した。日本で建造されたディーゼル船は、タイプ別に区分けしないならば、もっとも初期の船は1924年(大正13年)竣工分に集中している。すなわち、小型客船部門での大阪商船の音戸丸級貨客船[8]および「くれなゐ丸[9]、外洋型での三井物産の「赤城山丸[10]が、その一群である。さんとす丸級貨客船各船の建造順位は、外洋型ディーゼル船の中でも4番目から6番目と決して早くはなかったが、搭載していたズルツァー社型の機関は、特にその出力の面では当時の最高出力を誇っていた[11]。燃費の面を考慮してディーゼル機関を採用した結果、定時運航が可能となったわけであるが、当時、多くの外洋型貨客船に採用され実績もあったタービン機関を退けてまでディーゼル機関を採った理由についてははっきりしないが、ライバルで同じ航路に就航していた日本郵船の船隊に対抗するためとも考えられ、実際に日本郵船の船隊が神戸サントス間の航行に途中寄港に要した日数も含めて59日から65日もかかったのに対し[12]、さんとす丸級貨客船は同じ区間[注釈 3]で46日と[13]、50日を切るスピードを実現した[3]。世界的に見ても、ドイツの「モンテ・サルミエント」とイギリスの「アオランギ」に続く外洋型ディーゼル船であり、のちに交換船としても活躍したスウェーデンの「グリップスホルム」は、さんとす丸級貨客船3隻と建造期間が重なる[14]。さんとす丸とらぷらた丸のディーゼル機関はズルツァー社製のものを輸入して装備したが、もんてびでお丸のディーゼル機関は三菱造船長崎造船所が製作特許権を取得して製作した国産のものを装備した[15]

船体の基本設計は大阪商船工務部長の和辻春樹によるものである[3]。ディーゼル機関以外にもジャイロコンパスを用いた自動操縦装置を初めから備えるなど[16][17]、当時の新機軸装置を導入していた。船内設備は、先述の移民船改善の風潮に合わせて、初めて家族単位の移民に適合したものとなった[3]。各室は採光に配慮し、またカーテンで区切られ、ダブルベッドが設置された[18]。三等船室は上甲板に、一等船室は船橋甲板にそれぞれ設けられた[19]。三等船室は4室あり、前部にA、B室が、後部にC、D室があった[20]。船室内のハッチのカバー上にテーブルとベンチが置かれ、そこが食堂などとして使用されたが、荷役中は使用できないためベッドで食事をとることになった[21]。室内の換気は通風筒による自然通風と扇風機のみであり、熱帯地域を航行中は暑くなった[22]。復路では三等船室は貨物室として使用された[21]。覆甲板の船橋楼の右舷側に設けられた席数120隻の特別三等食堂は、移民たちが様々な活動を行う場所となった[23]

「さんとす丸」の三等のトイレは三等定員790人に対して男子便所が15個、女子便所が12個であった[24]。なお、規則では約50人に一つ大便所を設けるように定められていた[25]。洗面所は男女別に2か所設けられていた[26]。浴室も男女別に各1か所あり、広さは男が26.2平方メートル、女が26.6平方メートルであった[27]。船尾甲板室には広さ43.9平方メートルの洗濯室があった[27]

「さんとす丸」の病室エリアは船尾甲板室にあり、病床数は史料により違いがあるが普通病室12床、隔離病室12床が竣工時のものと思われる[28]。なお、この病床数では麻疹の流行に対応できず、上甲板の大部屋も病室として使用している[29]。診療室は船の中央にあった[30]。「さんとす丸」級の医療スタッフは船医1名、助手1名、看護婦2名(のち4名)であった[30]

就役[編集]

さんとす丸級貨客船は、竣工次第在来船と入れ替わるように就航。ぶゑのすあいれす丸級貨客船とともに西回り南米航路の顔として活躍した。その一方で、「船舶検査法」の規定にこだわる官僚からは、何かとクレームがつけられた。一等船室は主に、世界一周旅行を満喫する日本人以外の船客が運賃の安さも手伝って利用していたが、官僚連中は、そういった船客が三等船室のはるか上で幅広くスペースをとって船旅を楽しむのが気に入らなかった[3]。また、さんとす丸級貨客船は日本における移民船改善の顔として建造されたはずだったが、移民監督官としてブラジルへの渡航経験がある石川達三のデビュー作『蒼氓』(1935年(昭和10年))の影響で低く見られていることを、日本海事史学会理事の山田廸生が指摘している[3]。その後、あるぜんちな丸の登場と世界情勢の緊迫化により相次いで西回り南米航路から撤退して大連航路などに回り、1941年(昭和16年)には、さんとす丸級貨客船のうち「さんとす丸」が「満珠丸」に、「らぷらた丸」が「干珠丸」にそれぞれ改名するが、その理由は不明である[注釈 4]太平洋戦争中は特設艦船および船舶運営会使用船(とくに末期において、船舶運営会によって運営されるということは、すなわち軍事輸送船となることであった)として行動したが、戦争で3隻全てが喪失した。

行動略歴[編集]

船名 行動略歴
日付 概要
さんとす丸
満珠丸
1925年から1940年 西回り南米線[31]
1940年6月 大阪大連線[32]
1940年12月 神戸基隆線[32]
1941年1月24日 日本海軍に徴傭[33]
1941年(月日不詳) 満珠丸」に改名[32]。日本海軍内部でのみ「さんとす丸」の名称を使用[33]
1941年3月1日 特設潜水母艦[33]
1943年3月25日 特設運送船[33]
1944年11月25日 北緯20度14分 東経121度50分 / 北緯20.233度 東経121.833度 / 20.233; 121.833の地点でアメリカ潜水艦「アトゥル」の雷撃により沈没
1945年1月10日 除籍・解傭[33]
らぷらた丸
干珠丸
1926年から1940年 西回り南米線[34]
1940年4月 大阪大連線[34]
1941年1月 日本ハイフォン[34]
1941年6月 干珠丸」に改名[34]
1942年9月3日 アメリカ潜水艦「シール」の雷撃により損傷[35]
1945年1月12日 サイゴンでアメリカ第38任務部隊機の空襲により沈没
もんてびでお丸 1926年から1940年 西回り南米線[16]
1940年2月 東回り南米線[16]
1940年8月 大阪大連線[16]
1941年9月25日 日本海軍に徴傭[36]
1941年12月31日 特設運送船[36]
1942年7月1日 北緯18度37分 東経119度29分 / 北緯18.617度 東経119.483度 / 18.617; 119.483の地点でアメリカ潜水艦「スタージョン」の雷撃により沈没[37]
1942年7月20日 除籍・解傭[36]

要目一覧[編集]

船名 総トン数/ (載貨重量トン数) 全長/垂線間長 型幅 型深 主機/馬力(最大) 最大速力 出典
さんとす丸 7,266トン
(7,453トン)
136.6 m Loa
131.28 m Lpp
17.07 m 10.97 m ズルツァー ST60型 ディーゼル機関2基2軸
5,009.8 馬力
16.0 ノット(半載状態) [6][38][39]
らぷらた丸 7,266トン
(7,431トン)
131.28 m Lpp 17.07 m 10.97 m ズルツァー ST60型 ディーゼル機関2基2軸
5,256 馬力
16.0 ノット [34][40][41]
もんてびでお丸 7,266トン
(7,415トン)
136.7 m Loa
131.28 m Lpp
17.07 m 10.97 m 三菱ズルツァー型 ディーゼル機関2基2軸
5,452 馬力
17.3 ノット [16][42][43]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ただし、国籍はイギリス国籍のままである(#大野 p.186)。
  2. ^ 移民輸送開始時
  3. ^ 途中寄港地が日本郵船とは異なる(#移民運送船之研究 pp.44-45)。
  4. ^ #野間(2)#商船八十年史などは改名の事実は記してあるが、その理由までは言及されていない。

出典[編集]

  1. ^ Manju_Maru_class
  2. ^ #移民運送船之研究 p.4
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o #山田 p.61
  4. ^ #船舶検査法
  5. ^ #商船八十年史 p.347
  6. ^ a b #野間(2) p.450
  7. ^ #中外261207
  8. ^ #新三菱神戸五十年史 p.347
  9. ^ #日立造船株式会社七十五年史 p.147
  10. ^ #野間(2) p.453
  11. ^ #川崎汽船五十年史 p.492
  12. ^ #移民運送船之研究 p.45
  13. ^ #移民運送船之研究 pp.44-45
  14. ^ #野間(1) p.177
  15. ^ 三菱造船株式会社長崎造船所建造船 - 大正期・昭和初期”. なつかしい日本の汽船. 長澤文雄. 2018年4月26日閲覧。
  16. ^ a b c d e #野間(2) p.31
  17. ^ #移民運送船之研究 p.37
  18. ^ #移民運送船之研究 p.36
  19. ^ #移民運送船之研究 pp.37-38
  20. ^ 山田廸生『船にみる日本人移民史』93ページ
  21. ^ a b 山田廸生『船にみる日本人移民史』110ページ
  22. ^ 山田廸生『船にみる日本人移民史』106ページ
  23. ^ 山田廸生『船にみる日本人移民史』94-95、111ページ、山田廸生「名船発掘 さんとす丸(初代)」
  24. ^ 山田廸生『船にみる日本人移民史』123ページ
  25. ^ 山田廸生『船にみる日本人移民史』122-123ページ
  26. ^ 山田廸生『船にみる日本人移民史』126ページ
  27. ^ a b 山田廸生『船にみる日本人移民史』127ページ
  28. ^ 山田廸生『船にみる日本人移民史』128ページ
  29. ^ 山田廸生『船にみる日本人移民史』129ページ
  30. ^ a b 山田廸生『船にみる日本人移民史』130ページ
  31. ^ #野間pp.450-451
  32. ^ a b c #野間(2) p.451
  33. ^ a b c d e #特設原簿 p.103
  34. ^ a b c d e #野間(2) p.476
  35. ^ Chapter IV: 1942” (英語). The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II. HyperWar. 2012年7月26日閲覧。
  36. ^ a b c #特設原簿 p.123
  37. ^ #野間(2) p.33
  38. ^ #日本汽船名簿・満珠丸
  39. ^ #日本の客船1 p.74
  40. ^ #日本汽船名簿・干珠丸
  41. ^ #日本の客船1 p.75
  42. ^ #日本汽船名簿・もんてびでお丸
  43. ^ #日本の客船1 p.76

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(国立公文書館)
    • Ref.A03020221200『船舶検査法』。 
  • アジア歴史資料センター(公式)(外務省外交史料館)
    • Ref.B10070603800『移民運送船之研究』。 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
  • 日立造船(編)『日立造船株式会社七十五年史』日立造船、1956年。 
  • 三菱造船(編)『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年。 
  • 新三菱重工業神戸造船所五十年史編さん委員会(編)『新三菱神戸造船所五十年史』新三菱重工業株式会社神戸造船所、1957年。 
  • 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6 
  • 岡田俊雄(編)『大阪商船株式会社八十年史』大阪商船三井船舶、1966年。 
  • 川崎汽船株式会社(編)『川崎汽船五十年史』川崎汽船、1969年。 
  • 山高五郎『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』至誠堂、1981年。 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9 
  • 野間恒、山田廸生『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』海人社、1991年。ISBN 4-905551-38-2 
  • 野間恒『豪華客船の文化史』NTT出版、1993年。ISBN 4-87188-210-1 
  • 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』野間恒(私家版)、2004年。 
  • 正岡勝直「日本海軍特設艦船正史」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、6-91頁。 
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、92-240頁。 
  • 松井邦夫『日本商船・船名考』海文堂出版、2006年。ISBN 4-303-12330-7 
  • 大野裕之『チャップリン・未公開NGフィルムの全貌』日本放送出版協会、2007年。ISBN 978-4-14-081183-2 
  • 山田廸生「名船発掘・日本 140 さんとす丸(初代) 世界水準に達した日本最初の移民船『LA MAR 第214号』第37巻第3号、公益社団法人日本海事出版協会、2012年、60-61頁。 
  • 山田廸生『船にみる日本人移民史』中央公論社、1998年、ISBN 4-12-101441-3

関連項目[編集]