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黛幸弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
黛幸弘
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区
生年月日 (1957-11-14) 1957年11月14日(66歳)
騎手情報
所属団体 JRA
所属厩舎 東京美浦保田隆芳(1977 - 1996)
初免許年 1977年
免許区分 平地
騎手引退日 1996年
通算勝利 1353戦90勝
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黛 幸弘(まゆずみ ゆきひろ、1957年11月14日 - )は、埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)出身の元騎手・現厩務員

次男は騎手の黛弘人[1]

来歴

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デビュー前から騎手時代

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父の文男は大井の元騎手、浦和の元厩務員であり、騎手への憧れを抱いていた[1]

1977年3月東京保田隆芳厩舎からデビューしたが、前年の騎手試験で騎乗馬が外ラチに突っ込んで大腿骨を骨折し、試験も不合格であったため同期より1年遅れでのデビューとなった[1]

同13日中山第12競走5歳以上800万下・クニハルオー(9頭中6着)[2]で初騎乗を果たし、7月30日札幌第5競走4歳以上300万下・スイートアースで初勝利を挙げる[3]10月23日の中山第8競走4歳以上オープンではトウショウボーイに騎乗し[注 1]、1分33秒6という驚異的なレコードを叩き出し、2着に7馬身もの差をつけて圧勝してみせる[4]

2年目の1978年には自身唯一の2桁で最多の17勝をマークし[5]10月28日福島第10競走猪苗代特別・コンコースで初の特別勝ちを挙げ[6]11月19日には同馬の福島記念で重賞初騎乗(10頭中8着)を果たす[7]

1985年には浦和から移籍してきたキングハイセイコー主戦騎手を務め[8]安田記念でGI初騎乗を果たすと[9]札幌記念では2着[10]に入った。

1991年には初めて0勝に終わり[5]1992年には9月5日新潟第6競走4歳未勝利・セントマンボで1年ぶりの勝利、翌6日の第4競走4歳未勝利・トウショウジェラスで1990年7月29日の新潟以来2年ぶりの2日連続勝利をマークするが、同年はこの2勝に終わる[11]

1993年は再び0勝に終わり[5]1994年9月18日の中山第7競走4歳新馬で9頭中9番人気のオンワードラムセス、1995年9月24日の中山第2競走4歳未勝利で16頭中11番人気のケイイクセルを勝利に導く[11]。両年共にこの1勝に終わるが、後者が最後の勝利となった[11]

1994年には1982年に結婚した妻・清子が体調を崩して死去したため、騎手生活晩年の平日は朝早くから調教に跨りながら幼い子供2人を学校へやり、競馬に騎乗する週末は人に預けざるをえなかったが、自分の騎乗が終わるとすぐに引き取りに行った[1]。夏場のローカル開催時には一緒に連れて行ったが、次男の弘人は北海道開催時に幸弘がレースで騎乗している姿を初めて見た[1]

1996年2月17日の東京第7競走4歳以上500万下・ケイイクセル(16頭中9着)が最後の騎乗[12]となり、同29日をもって現役を引退。

騎手引退後

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引退後は中野栄治厩舎で調教助手となり[1]トロットスターなどを担当[13]。後に調教厩務員となり[1]2015年にはフェアリーステークスで担当したノットフォーマルに息子の弘人が騎乗し勝利した[13]

参考文献

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脚注

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  1. ^ 平場競走で見習騎手騎乗により斤量が3kg軽くなるため。

出典

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関連項目

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