鮫島具重
鮫島具重 | |
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長門艦長時代 | |
生誕 |
1889年4月8日 日本東京府 |
死没 | 1966年9月13日(満77歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1909年 - 1946年 |
最終階級 | 海軍中将 |
鮫島 具重(さめじま ともしげ、1889年4月8日 - 1966年9月13日)は、日本の海軍軍人。階級は海軍中将。爵位は男爵。
概要
[編集]岩倉具経の四男として生まれ、海軍大将鮫島員規の養嗣子となる。太平洋戦争において司令長官職を歴任。ラバウルでともに終戦まで戦い抜いた同期生の草鹿任一・南東方面艦隊司令長官や、陸軍第8方面軍司令官の今村均と同様に人格者として知られていた。戦後の戦犯問題では部下の責任を引き受ける態度を示し、豪軍に感銘を与えたという[1]。
経歴
[編集]1909年(明治42年)11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、翌月に海軍少尉に任官し、同月、養父の死去に伴い男爵を襲爵。1916年(大正5年)12月、海軍砲術学校高等科を卒業し、以後、「吾妻」分隊長、「金剛」部隊長、砲術学校教官、「陸奥」副砲長、東伏見宮依仁親王付副官を経て、1923年(大正12年)10月、海軍大学校(甲種21期)を卒業した。
「由良」砲術長、イギリス駐在、高松宮宣仁親王付武官、「羽黒」副長、運送艦「青島」艦長、上海陸戦隊指揮官、第3艦隊参謀、「北上」艦長、「最上」艦長、「羽黒」艦長、「長門」艦長を歴任した。最上艦長時代に酒に酔った板倉光馬少尉(当時)に殴られるという事件があったが、板倉を軍法会議処分にせず、他艦への移動処分に留めるという温情処分にしている。1937年(昭和12年)12月、海軍少将に進級し、第4航空戦隊司令官、第13戦隊司令官、第2航空戦隊司令官、侍従武官を経て、1941年(昭和16年)10月、海軍中将に進級した。1942年(昭和17年)10月、井上成美の後任として第4艦隊司令長官に着任。翌年4月、第8艦隊司令長官となったが、第8艦隊は艦船を消耗して大戦末期には事実上第8艦隊の司令部が置かれたブーゲンビル島ブインの守備隊司令官となる。
この時期、かつて最上艦長時代に自身を殴った事件で温情処分とした、板倉が艦長を務める潜水艦による補給作戦を受ける。板倉は鮫島に「かつて上官を殴った私が恥ずかしながら救援に参りました」としてウイスキーを贈り、鮫島は手製のパイプを贈った。鮫島はブインを死守し終戦を迎える。1946年(昭和21年)3月、予備役に編入された。板倉とは戦後の軍事裁判の場でも再会しており、涙を流して手を取り合ったとされる。
栄典
[編集]- 勲章
系譜
[編集]岩倉具視は祖父にあたる。養嗣子として鮫島家を継いだため、鮫島家とは血縁上の関係はない。妻の豊子は花房義質の長女。長男員重の妻は渋沢正雄の次女、純子(実業家渋沢栄一の孫)。
- 祖父:岩倉具視 - 政治家
- 父:岩倉具経 - 外交官
- 養父:鮫島員規 - 海軍軍人
- 兄:岩倉具光 - 実業家
- 伯父:岩倉具定 - 宮内官僚
- 義叔父:戸田氏共 - 外交官
- 従兄:岩倉具張 - 宮内官僚
- 従姉:依仁親王妃周子 - 旧皇族
脚注
[編集]- ^ 吉田俊雄 1996, p. 296.
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第5029号, 叙任及辞令.
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 板倉光馬『どん亀艦長青春記―伊号不沈潜水艦長の記録』光文社NF文庫、1995年。
- 吉田俊雄『指揮官たちの太平洋戦争』光人社〈NF文庫〉、1996年。
- 官報
- 『官報』 第5029号、1943年10月15日。
軍職 | ||
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先代 井上成美 |
第四艦隊司令長官 第4代:1942年10月28日 - 1943年4月1日 |
次代 小林仁 |
先代 三川軍一 |
第八艦隊司令長官 第2代:1943年4月1日 - 1945年8月15日 |
次代 (解散) |
日本の爵位 | ||
先代 鮫島員規 |
男爵 鮫島家第2代 1910年 - 1947年 |
次代 (華族制度廃止) |