コンテンツにスキップ

鮫島具重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鮫島具重
長門艦長時代
生誕 1889年4月8日
日本の旗 日本東京府
死没 1966年9月13日(満77歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1909年 - 1946年
最終階級 海軍中将
テンプレートを表示

鮫島 具重(さめじま ともしげ、1889年4月8日 - 1966年9月13日)は、日本海軍軍人階級海軍中将爵位男爵

概要

[編集]

岩倉具経の四男として生まれ、海軍大将鮫島員規の養嗣子となる。太平洋戦争において司令長官職を歴任。ラバウルでともに終戦まで戦い抜いた同期生の草鹿任一南東方面艦隊司令長官や、陸軍第8方面軍司令官の今村均と同様に人格者として知られていた。戦後の戦犯問題では部下の責任を引き受ける態度を示し、豪軍に感銘を与えたという[1]

経歴

[編集]

1909年(明治42年)11月、海軍兵学校37期)を卒業し、翌月に海軍少尉に任官し、同月、養父の死去に伴い男爵を襲爵。1916年(大正5年)12月、海軍砲術学校高等科を卒業し、以後、「吾妻分隊長、「金剛」部隊長、砲術学校教官、「陸奥」副砲長、東伏見宮依仁親王副官を経て、1923年(大正12年)10月、海軍大学校(甲種21期)を卒業した。

由良」砲術長、イギリス駐在、高松宮宣仁親王付武官、「羽黒」副長、運送艦「青島艦長上海陸戦隊指揮官、第3艦隊参謀、「北上」艦長、「最上」艦長、「羽黒」艦長、「長門」艦長を歴任した。最上艦長時代に酒に酔った板倉光馬少尉(当時)に殴られるという事件があったが、板倉を軍法会議処分にせず、他艦への移動処分に留めるという温情処分にしている。1937年(昭和12年)12月、海軍少将に進級し、第4航空戦隊司令官、第13戦隊司令官、第2航空戦隊司令官、侍従武官を経て、1941年(昭和16年)10月、海軍中将に進級した。1942年(昭和17年)10月、井上成美の後任として第4艦隊司令長官に着任。翌年4月、第8艦隊司令長官となったが、第8艦隊は艦船を消耗して大戦末期には事実上第8艦隊の司令部が置かれたブーゲンビル島ブインの守備隊司令官となる。

この時期、かつて最上艦長時代に自身を殴った事件で温情処分とした、板倉が艦長を務める潜水艦による補給作戦を受ける。板倉は鮫島に「かつて上官を殴った私が恥ずかしながら救援に参りました」としてウイスキーを贈り、鮫島は手製のパイプを贈った。鮫島はブインを死守し終戦を迎える。1946年(昭和21年)3月、予備役に編入された。板倉とは戦後の軍事裁判の場でも再会しており、涙を流して手を取り合ったとされる。

栄典

[編集]
勲章

系譜

[編集]

岩倉具視は祖父にあたる。養嗣子として鮫島家を継いだため、鮫島家とは血縁上の関係はない。妻の豊子は花房義質の長女。長男員重の妻は渋沢正雄の次女、純子(実業家渋沢栄一の孫)。

脚注

[編集]
  1. ^ 吉田俊雄 1996, p. 296.
  2. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  3. ^ 『官報』第5029号, 叙任及辞令.

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 板倉光馬『どん亀艦長青春記―伊号不沈潜水艦長の記録』光文社NF文庫、1995年。
  • 吉田俊雄『指揮官たちの太平洋戦争』光人社〈NF文庫〉、1996年。 
官報
  • 『官報』 第5029号、1943年10月15日。 
軍職
先代
井上成美
第四艦隊司令長官
第4代:1942年10月28日 - 1943年4月1日
次代
小林仁
先代
三川軍一
第八艦隊司令長官
第2代:1943年4月1日 - 1945年8月15日
次代
(解散)
日本の爵位
先代
鮫島員規
男爵
鮫島家第2代
1910年 - 1947年
次代
(華族制度廃止)