鈴木由哲
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鈴木 由哲(すずき ゆうてつ、1833年[1] - 1917年6月21日)は、幕末の関宿藩久世家の家老。海軍大将・枢密院議長・内閣総理大臣を務めた鈴木貫太郎は長男。旧姓は倉持(くらもち)。通称は為之助(ためのすけ)。
経歴
[編集]由哲の生家・倉持家は三河国渥美郡の出で、倉持家は大名にこそなっていないが、旗本や譜代大名の陪臣として多数を占めており、古くからの徳川の家臣である。
由哲は久世家関宿藩5万8千石の家老(1万石)で、砲術指南を務め、鳥羽・伏見の戦いにも従軍した(関宿藩は上野戦争でも正確無比な砲撃で新政府軍を撃退した実績がある)。
久世家は関宿のほかに和泉国大鳥郡にも領地があり、由哲はそこの代官を務めたことがあって、長男・鈴木貫太郎はその時生まれている。関宿は江戸時代、利根川と江戸川の分岐点にあり、交通の要衝として重視されていた。弟は、彰義隊に入り、上野戦争で官軍の兵士を沢山斬って戦い続けた大柄な剣豪(全国指名手配されるも東北で豪商の一人娘を娶り、商人として生存し恩赦まで政府には所在不明だった)。
鈴木の家には子供がなかったので、由哲は倉持家から養子に入った。倉持家は足利将軍家の被官で、鎌倉期から足利家所領の管理を行い、三河国額田郡内に所領を持っていた家柄である。
系譜
[編集]- 鈴木氏
- 鈴木家に子供がなかったため、由哲が倉持家から養子入り(倉持家は足利氏家臣の家柄で足利家管財文書係)。由哲の長男は第42代内閣総理大臣の鈴木貫太郎。孫の鈴木一(はじめ)は農林省山林局長、侍従次長、外務省出入国管理庁長官等を歴任した。靖国神社宮司を務めた鈴木孝雄陸軍大将は次男。関東都督府外事総長、久邇宮御用掛の鈴木三郎は三男(妻のトネは木下広次の長女)。四男の永田茂陸軍中佐(姉・敬子の夫である永田廉平海軍大尉の養嗣子)は軍務での無理がたたり、40歳代前半で死去した(別冊歴史読本57『日本の名家・名門人物系譜総覧』、新人物往来社、2003年)。
由哲━━┳貫太郎━┳ 一 ━┳哲太郎━┳真理絵 ┣孝雄 ┣さかえ ┗道子 ┗由里 ┣よし ┗ミつ子 ┣三郎 ┣君 ┣敬子 ┗茂