菊地哲
菊地哲 | |
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別名 |
Tetsu TETSU GREATZ UPPER |
生誕 | 1969年2月22日(55歳) |
出身地 | 日本 東京都 |
ジャンル | ロック |
職業 | ドラマー・ソングライター |
担当楽器 | ドラムス |
活動期間 | 1982年- |
レーベル |
デンジャークルー・レコード(1989年) BMG VICTOR(1990年) cutting edge(2007年〜2012年) ワーナーミュージック・ジャパン(2013年〜) |
事務所 | Kain-Abel Inc. |
共同作業者 | D'ERLANGER |
公式サイト | GREATZ UPPER official site |
著名使用楽器 | |
Pearl[1] |
菊地 哲(きくち てつ、1969年2月22日 - )は、日本の音楽家でD'ERLANGERのドラマー(Tetsu名義)、デザイナー(GREATZ UPPER(愛称:G-U、テットス)名義[2])。株式会社カインアベル 社長[3]。
概要
[編集]1987年、D'ERLANGERに加入。
1990年、D'ERLANGERでメジャー・デビュー。同年解散。
1991年、ZI:KILLに加入。同年脱退。
1992年、BODYを結成し、1994年4月にメジャー・デビュー。翌月5月に日本武道館でデビューライブを行うが、同年7月に解散。
- 同年、CRAZEを結成、1995年再メジャー・デビューを果たす。
2006年1月、CRAZE解散。
2007年、D'ERLANGER再結成。4月22日、日比谷野外音楽堂にて復活ライブを行った。その後、D'ERLANGERが独立し事務所社長に就任。2023年9月現在の所属レーベルはワーナーミュージック・ジャパン。
人物
[編集]東京都新宿区の慶應義塾大学病院にて誕生。誕生日に関しては、22日から23日の日付変更の頃に誕生した為、誕生日が23日になりかけるも、ゾロ目の22日となった。
幼稚園から大学まである私立学校に通っていたが、高校へ進学した入学式の日に喧嘩で退学した。
ドラムの専門学校に入学したが、すぐに辞める。
その後、44MAGNUMのローディとしてドラマーである宮脇“JOE”知史の元に弟子入りする。この時に広瀬さとしの弟子であった瀧川一郎と出会った。その後、1988年9月 京都スポーツバレーで再会したことからCIPHERからD'ERLANGERに誘われ加入することになった。
18歳から20歳のD'ERLANGERメジャー・デビューまでの1年半の間、京都に住んでいた。京都からTETSUがKYOに電話して誘い京都に呼びD'ERLANGERに加入することになった。
レッド・ホット・チリ・ペッパーズのチャド・スミスと親交が深く、チャドの来日時は付き人になる。
1992年5月に、藤崎賢一・瀧川一郎・岸根光・菊地哲の4人によるSPYいう一夜限りのバンドがあった。
ZI:KILLまで「TETSU」の名で活動していたが、再結成したD'ERLANGERでは「Tetsu」(頭文字のみ大文字)の表記に変更した[4]。(詳細はZI:KILL#エピソードを参照。)
RE雨宮作成のコンプリートカー・GReddyIIIのオーナーだったことがある。
1999年2月24日リリースのCRAZE『ware ware, war』収録「OVER」(作詞作曲菊地哲)はhideに捧げた曲。
ドラム会に参加している。
ヤガミトール(BUCK-TICK)をアニキと慕っている[5]。
バンド歴
[編集]- ラビット
- DEAD WIRE(1985年)※TAIJIとKYOが在籍
- SAVER TIGER(1986年)※KYOと同時期に在籍
- MEPHISTOPHELES(1987年)
- ERASER HEAD(1987年)結成メンバー
- D'ERLANGER(1987年10月 - 1990年11月19日、2007年 - )
- ZI:KILL(1991年3月 - 1991年12月)
- SPY(1992年5月18日 渋谷公会堂)
- BODY(1992年夏 - 1994年7月)
- CRAZE(1994年7月 - 2006年1月9日)
- 地獄ヘルズ(2018年)※アルバム参加
関連項目
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- ^ TETSU / Pearl
- ^ GREATZ UPPER with Noah'sark
- ^ “D'ERLANGERのドラマーと個人事務所の社長。2つの顔を持つTetsuが語る苦悩と葛藤│音楽と人2023年1月号増刊『PHY Vol.23』”. 音楽と人 (2023年). 2023年9月10日閲覧。
- ^ kyoも同様である。
- ^ 音楽と人2023年10月号. 2023年9月10日閲覧。