第48師団 (日本軍)
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第48師団 (日本軍) | |
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創設 | 昭和15年(1940年)11月30日 |
廃止 | 昭和20年(1945年) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵種/任務 |
歩兵 (自動車化歩兵及び上陸戦(1940~)) |
人員 | 約25,000名 |
所在地 | 華南-台湾-フィリピン-ジャワ島-ティモール島 |
編成地 | 海南島 |
通称号/略称 | 海 |
補充担任 | 台湾軍管区 |
最終上級単位 | 第16軍 |
最終位置 | 小スンダ列島 ティモール島 |
戦歴 | 日中戦争-太平洋戦争-フィリピン-ジャワ作戦 |
第48師団(だいよんじゅうはちしだん)は、日中戦争勃発後華中から華南を転戦し、第22軍隷下広東省に在った台湾混成旅団に、第6師団から転用された歩兵第47連隊を加え編成された、台湾を管轄区域とする常設師団である。
沿革
[編集]昭和15年(1940年)11月30日編成下令[注釈 1]、編成に先立ち第22軍は廃止され、同年12月6日大陸命第477号により南支那方面軍戦闘序列に編入、南支那方面軍直轄から第23軍(大陸命第503号)隷下を経て、1941年(昭和16年)8月12日に大陸命第542号により第23軍戦闘序列を解かれ台湾軍隷下となり台湾に戻った。
その後、太平洋戦争開戦1ヶ月前の1941年(昭和16年)11月6日に再び動員された。第48師団は第5師団とともに揚陸能力を備えた機械化師団[注釈 2]のうちの一つであり、極めて重要な存在だった。開戦後、まずは第14軍の主力としてフィリピンの攻略に従事した。マニラ占領後はバターン半島の攻略には向かわず、1942年(昭和17年)1月14日に蘭印作戦のため第16軍戦闘序列に編入され(大陸命第588号)、3月1日ジャワ島東部に上陸し、3月7日スラバヤを攻略した。蘭印作戦終了後はジャワ島の警備にあたり、1943年(昭和18年)1月に第19軍隷下となるが、1945年(昭和20年)2月28日第2方面軍戦闘序列に編入(大陸命第1265号)、そして同年6月13日に第2軍戦闘序列に編入(大陸命第1346号)、8月4日には再度第16軍戦闘序列に編入(大陸命第1370号)、ティモール島で終戦を迎えた。
師団概要
[編集]歴代師団長
[編集]- 中川広 中将:1940年(昭和15年)12月2日 - 1941年(昭和16年)9月15日
- 土橋勇逸 中将:1941年(昭和16年)9月15日 - 1944年(昭和19年)11月22日
- 山田国太郎 中将:1944年(昭和19年)11月22日 - 終戦
参謀長
[編集]- 川越守二 大佐:1940年(昭和15年)12月2日 - 1943年5月4日[1]
- 宇垣松四郎 大佐:1943年(昭和18年)5月4日 - 1945年2月12日[2]
- 吉岡英太郎 大佐:1945年(昭和20年)2月12日 - 終戦[3]
最終所属部隊
[編集]- 台湾歩兵第1連隊(台北):恒岡小文吾大佐
- 台湾歩兵第2連隊(台南):田中透少将
- 歩兵第47連隊(大分):徳弘保衛大佐
- 戦車第4連隊:戒田達一大佐
- 捜索第48連隊:住田英夫中佐
- 山砲兵第48連隊:六反田壮吉大佐
- 工兵第48連隊:西本慶一少佐
- 輜重兵第48連隊:馬場和人大佐
- 第48師団通信隊:小池正次少佐
- 第48師団兵器勤務隊:興水忠治少佐
- 第48師団衛生隊:山本良三大佐
- 第48師団第1野戦病院:横尾正庸軍医少佐
- 第48師団第2野戦病院:原田純隆軍医少佐
年表
[編集](以下内容を咀嚼し、執筆者の責任において、記事中に加筆してください)
- 1940年(昭和15年)
- 1941年(昭和16年)
- 2月7日 :師団編成完結。
- 3月 :援蒋ルート遮断のため華南の雷州・北海に上陸。付近の掃討。
- 4月 :福州作戦参加。
- 7月23日:師団各補充隊を編成[* 4]。
- 8月12日:第23軍より台湾軍隷下となり台湾に移動。
- 8月23日:「第四十八師団訓練要綱」[* 5]に基づき、熱地に即応する練成を行い装備資材を整備。
- 11月6日:太平洋戦争開戦1ヶ月前に動員下令[* 6]。第14軍 (比島作戦担当・本間雅晴中将)戦闘序列編入。
- 12月8日 :大東亜戦争 開戦。
- 12月10日:菅野支隊(台湾歩兵第2連隊の主力)が、ビガンに上陸。および田中支隊(台湾歩兵第2連隊第2大隊基幹)がアパリに上陸。
- 12月17~18日:第48師団は、76隻の輸送船団に乗船し、台湾の高雄・基隆・馬公を出発。
- 12月22日:師団主力が、比島リンガエン湾進入。[* 12]
- 12月23日0500:先遣隊アゴー南方地区とアリンガイ付近に上陸。抵抗を受けるもロザリオを占領。[* 13]
- 12月25日夕刻:アグノ河到着、渡河点占領。
- 12月28日:アグノ河渡河。
- 12月30日:タルラック市攻略戦。[* 14]
- 1942年(昭和17年)
- 1月1日 :本間軍司令官、第48師団・第16師団にマニラ市・キャビテ軍港・バタンガスの占領確保を命じる。
- 1月2日
- 1月14日:占領後はバターン半島の攻略には向かわず、蘭印作戦のため第16軍戦闘序列に編入[* 15]。
- 2月8日 :リンガエン湾出航。ホロ島に集結。
- 2月19日:金村支隊(台湾歩兵第1連隊第3大隊基幹)がバリ島に上陸した。
- 3月1日 :師団主力が、爪哇島東部クラガンに上陸。
- 3月2日 :レンバン島、チエプーを攻略。ソロ河に架橋。
- 3月4日 :ケデリを攻略。プランタス河右岸に進撃。
- 3月5日 :ヌガウイ兵営突入。監禁中の邦人婦女子32人救出。
- 3月6日 :ハバト、ボロン、モジョケルト攻略。スラバヤを包囲。
- 3月7日 :スラバヤに突入。
- 3月8日 :蘭印東部兵団司令官イルヘン少将が降伏。
- 3月9日 :蘭印軍司令官が降伏指示ラジオ放送。
- 4月23日:小スンダ列島戡定作戦発令。
- 5月10日:S作戦発令。
- 5月10日:歩兵第47連隊第3大隊の1コ中隊(藤田大尉)が、ロンボク島上陸・勘定作戦。(抵抗するものは皆無。25日:スラバヤに撤収)
- 5月11日:歩兵第47連隊第3大隊の1コ中隊(佐野大尉)が、スンバワ島上陸・勘定作戦。(抵抗するものは皆無。22日:スラバヤに撤収)
- 5月14日:歩兵第47連隊第3大隊の1コ中隊(大隊長宮地育三小佐指揮)が、フローレス島上陸・勘定作戦。(抵抗するものは皆無。20日:スラバヤに撤収)
- :蘭印作戦終了後は爪哇島の警備にあたる[* 16]。
- 8月24日:師団は、スンダ列島戡定を終え、ガダルカナル島に向かう東方支隊(支隊長:第38歩兵団長伊東武夫少将、歩兵第228連隊基幹・名古屋[* 17])との任務を引継ぎ、ティモール島(西部:蘭領・東部:葡領)転進が決定。
- 9月5日 :先遣隊の歩兵第47連隊(柳勇大佐)第2大隊がディリに上陸し東方支隊と任務交替。
- 10月 :原住民蜂起による、葡総督の保護要請があり、東部を含むティモール全島の警備、治安維持。
- 1945年(昭和20年)
- ^ 軍令甲第57号。
- ^ 97式軽装甲車を国軍で初めて装備した部隊。
- ^ 令甲第570号:南方作戦用の車輛編制師団として、近衛師団・第5師団とともに改編を下令された。
- ^ 台湾歩兵第1連隊補充隊、台湾歩兵第2連隊補充隊、歩兵第47連隊補充隊、捜索第48連隊補充隊、山砲兵第48連隊補充隊、工兵第48連隊補充隊、輜重兵第48連隊補充隊、を編成。 台湾軍は1軍管1師管のため、1軍管2師管の朝鮮軍とは異なり、留守第48師団司令部は編成されず、各補充隊は台湾軍直属である。 そのため、制毒訓練所、兵器廠 も師団所属でなく台湾軍の直属である。
- ^ 大陸指第945号
- ^ 熊本師管の予備役、後備役を召集。
- ^ そのため、後に台湾軍の留守隊で編成された第50師団も馬匹を持たない車両編成であった。
- ^ 乗馬斥候に代わる 自動二輪車による2名1組の斥候班で、1名は96式4号無線機を装備し、本隊との無線通話。1名は着剣可能な96式軽機関銃を装備、敵との不期遭遇に備えた。騎兵学校で、偵察行動(編制・装備・戦闘法)の研究・訓練を行われた、国軍初の実践部隊である。
- ^ 昭和16年10月、実用実験隊として、捜索第48連隊に九七式自動二輪車などを60両集中配置した自動二輪車隊を設置し南方作戦に参加させた。さらに、比島での捜索第48連隊の活躍を参考にして、捜索第2連隊にも自動二輪車隊が増加されジャワ作戦に参加した。
- ^ 連隊は従来の駄載(砲を分解して馬に載せて運搬する方式)の3コ大隊編成から、自動車編成の機械化山砲部隊へと改変がなされた。
- ^ 主要な南方作戦使用部隊には、急速な作戦遂行、部隊展開を行わせるため、定員2割の補充員を、戦力増加補強を兼ねて事前補充された。 作戦終了時には、この増加人員を現地復員することにより、防衛守備警備部隊に捻出する目論見を含んでいた。
- ^ 波高く上陸作業は、かなり困難だった。
- ^ 「アグノ攻略」の折りに、歩兵大隊に配属されていた「山砲兵第48連隊」隷下の山本岩夫大尉指揮の「山本中隊」が、歩兵戦闘に参加して、「貨車山砲」装備の車上から20発の榴弾を発射して支援射撃を行った。
- ^ 「マニラ攻略戦」の前哨戦である、12月30日の「タルラック市攻略戦」で、「貨車山砲」初の機甲部隊に対する戦闘も生起した。 マニラ市を越えてコレヒドール半島方面へ後退する米比軍を遮断すべく、側面からタルラック市を攻略しようとする「上島支隊(第16師団歩兵第9連隊基幹)」の側面援護として、「台湾歩兵第2連隊」の第2大隊を基幹に編成された「菅野支隊(指揮官・菅野善吉少佐)」に配属された「山本中隊」装備の「貨車山砲」が、本邦戦史上初の「貨車山砲」による対機甲戦闘を展開した。 戦闘の詳細は、昭和16年12月30日未明、タルラック市近郊にて「M3」軽戦車13両を擁する米比混成の機械化部隊(戦車第192ないし第194大隊基幹)の攻撃を破砕した。 さらに同日午前9時には、「M3」軽戦車20両からなる米比連合の反撃部隊の蹂躙を受けて、肉薄攻撃で対抗している「上島支隊」の応援に掛けつけていた「山本中隊」は。車上射撃を開始して、戦闘開始より約10後に2両の「M3」軽戦車を破壊して、敵逆襲部隊を撃退している。
- ^ 南方作戦日程繰上げ方針による。 計画は何回も変更されてきたが、それでも第14軍の想定より約4~5週間早い抽出である。 元をたどると、杉山参謀総長の昭和天皇の苦言と見栄から発しているが、南方軍の過度の達成指向と忖度を、参謀本部もやりすぎ感じていた。 視察中の大本営参謀 井本熊男中佐、竹田宮恒徳王少佐が「攻撃続行バターン先処理」を大本営打電直前に、一方的に南方軍から第14軍へ転用命令が発令された。帰京後の報告を聞いた第1部長田中新一中将は不信を感じ、その後視察した第2部6課長天野正一大佐も「攻略予想明言できない」と報告している。 であるが、この日程繰上げを行った結果、蘭印作戦は連合国軍の対策が間に合わず、少ない損害で成功を治めることができたのは、紛れもない事実である。
- ^ 第48師団は、セイロン島攻略の準備を内命されていた。
- ^ 第38師団
- ^ 第19軍は、モルッカ諸島を中心に、西部ニューギニアからチモー ル島までの防衛を任務。
- ^ 台湾歩兵第1連隊から第9・第10中隊、第2連隊から第3大隊1コ中隊、独立重砲兵第13連隊 等。
- ^ a b c 第16軍隷下。
脚注
[編集]- 注釈
- 出典
参考文献
[編集]- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 第48師団(海) アジ歴グロッサリー - アジア歴史資料センター