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町田経宇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
町田 経宇
生誕 1865年10月22日慶応元年9月3日
薩摩国日置郡伊集院郷(現在の鹿児島県日置市
死没

1939年1月10日(1939-01-10)(73歳没)

昭和14年)
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1887年 - 1935年
最終階級 陸軍大将
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町田 経宇(まちだ けいう、1865年10月22日慶応元年9月3日) - 1939年昭和14年)1月10日)は、日本陸軍軍人陸士旧9期陸大9期栄典正三位勲一等功三級。最終階級は陸軍大将

旧名、宮崎愛次郎。 古参の上原閥の一人であり、宇都宮太郎の同志(反長州閥)であった。

経歴

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薩摩国伊集院(現:日置市)で薩摩藩士井尻仲左衛門の二男として生まれ、漢口領事などを務めた薩摩出身の領事町田実一の養嗣子となる。司法省法学校を経て、1887年7月、陸軍士官学校(旧9期)を卒業し、陸軍少尉任官。1893年11月、陸軍大学校(9期)を卒業した。日清戦争に出征し、1895年3月、歩兵第10旅団副官となる。参謀本部第1部員、ウラジオストク駐在、ロシア差遣などを歴任。

日露戦争では、第4軍参謀として出征した。フランス大使館[1]、参謀本部課長、歩兵第48連隊長、第15師団参謀長などを経て、1912年3月、陸軍少将に進級し、歩兵第30旅団長、支那公使館付武官、参謀本部第2部長を歴任。1916年8月、陸軍中将となり、第11師団長、第4師団長、サガレン州派遣軍司令官を歴任。1922年5月、陸軍大将となり、軍事参議官を務め、1925年5月に宇垣軍縮のため予備役に編入され、1935年4月に退役した。

逸話

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  • 1924年10月に金沢で行われた大演習の南軍司令官は田中義一大将、北軍司令官は町田であった[2]。田中は手袋を外して町田に握手を求めた。しかし、田中が陸相候補問題を起こしてから日が浅いこともあり、上原閥の町田は目を合わせず、手袋をつけたままこれに応じている[3]。先任の大将に対して儀礼に欠く行為であったが、陸軍内における田中と長州閥に対する感情を顕していた。

年譜

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栄典

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位階
勲章等

親族

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脚注

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  1. ^ The Japan Year Book1906, p86
  2. ^ 『北海道統計』第41号、昭11.9、14頁. 北海道庁. (1936年) 
  3. ^ 田中義一写真 大演習、町田北軍司令官と. (1924年). 
  4. ^ 『官報』第608号 大正3年8月10日 敍任及辭令
  5. ^ 『官報』第2193号「叙任及辞令」1890年10月20日。宮崎経宇
  6. ^ 『官報』第2571号「叙任及辞令」1892年1月28日。宮崎経宇
  7. ^ 『官報』第5304号「叙任及辞令」1901年3月12日。
  8. ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
  9. ^ 『官報』第8666号「叙任及辞令」1912年5月11日。
  10. ^ 『官報』第1236号「叙任及辞令」1916年9月12日。
  11. ^ 『官報』第1858号「叙任及辞令」1918年10月11日。
  12. ^ 『官報』第2784号「叙任及辞令」1921年11月11日。
  13. ^ 『官報』第3707号「叙任及辞令」1924年12月29日。
  14. ^ 『官報』第3601号「叙任及辞令」1939年1月9日。
  15. ^ 『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。
  16. ^ 『官報』第1190号「叙任及辞令」1916年7月19日。
  17. ^ 『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。
  18. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  19. ^ 『官報』1910年3月22日 敍任及辭令
  20. ^ 『官報』第1695号「叙任及辞令」1918年3月30日。
  21. ^ 町田敬二”. コトバンク. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年4月24日閲覧。

参考文献

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