「ヴァーツラフ1世 (ボヘミア公)」の版間の差分
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'''ヴァーツラフ1世'''('''Václav I''', [[907年]] - [[935年]][[9月28日]])は、[[ボヘミア]]公(在位:[[921年]] - 935年)。[[ヴラチスラフ1世 (ボヘミア公)|ヴラチスラフ1世]]と妃[[ドラミホーラ]]の長男。[[プシェミスル朝]]の実質的な始祖[[ボジヴォイ1世 (ボヘミア公)|ボジヴォイ1世]]の孫で4代目にあたる。ボヘミアの[[キリスト教]]化を推進したが反対派に[[暗殺]]された。[[チェコ]]の[[守護聖人]]'''聖ヴァーツラフ'''としても知られている。 |
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== 生涯 == |
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ヴァーツラフ1世が生まれたころのボヘミアはキリスト教を受け入れ、また地域と社会の国家化が進んでいく過程にあった。ボジヴォイ1世がキリスト教徒となり、以後プシェミスル朝は[[プラハ]]を中心としてキリスト教と王権を柱とする支配体制を構築していくが、まだキリスト教を受け入れず、また王権体制を拒絶する旧来からの有力者も多かった。周辺環境としては、西からはドイツ、東からはハンガリーの勢力が伸張していた。 |
ヴァーツラフ1世が生まれたころのボヘミアはキリスト教を受け入れ、また地域と社会の国家化が進んでいく過程にあった。ボジヴォイ1世がキリスト教徒となり、以後プシェミスル朝は[[プラハ]]を中心としてキリスト教と王権を柱とする支配体制を構築していくが、まだキリスト教を受け入れず、また王権体制を拒絶する旧来からの有力者も多かった。周辺環境としては、西からはドイツ、東からはハンガリーの勢力が伸張していた。 |
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ヴァーツラフ1世は祖母[[聖ルドミラ]]によって信仰篤いキリスト教徒として育てられるが、ルドミラはヴァーツラフ1世への影響力や政治方針を巡って、父ヴラチスラフ1世の戦死後に摂政となっていた母ドラミホーラと対立し、ドラミホーラと彼女が味方とした従来の政策に反感を持つ貴族達によって殺害された。ドラミホーラもまもなく貴族の離反にあって権力を失い、[[924年]]ないし[[925年]]、成人したヴァーツラフ1世は実権を掌握した。 |
ヴァーツラフ1世は祖母[[ボヘミアのリュドミラ|聖ルドミラ]]によって信仰篤いキリスト教徒として育てられるが、ルドミラはヴァーツラフ1世への影響力や政治方針を巡って、父ヴラチスラフ1世の戦死後に摂政となっていた母ドラミホーラと対立し、ドラミホーラと彼女が味方とした従来の政策に反感を持つ貴族達によって殺害された。ドラミホーラもまもなく貴族の離反にあって権力を失い、[[924年]]ないし[[925年]]、成人したヴァーツラフ1世は実権を掌握した。 |
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ヴァーツラフ1世は母を追放し(後に帰参)、[[聖ヴィート大聖堂]]の始まりとなる聖堂を建造、宣教師をドイツから招くなど、キリスト教化を進める政策を採った。外交政策としては[[東フランク王国]](及び後の[[神聖ローマ帝国]])の宗主権を認め、ボヘミアは西ヨーロッパ世界の一員となった。これによりプシェミスル朝は西からの軍事圧力を緩和し、キリスト教布教の援助を得て国内支配の強化を進めることができた。 |
ヴァーツラフ1世は母を追放し(後に帰参)、[[聖ヴィート大聖堂]]の始まりとなる聖堂を建造、宣教師をドイツから招くなど、キリスト教化を進める政策を採った。外交政策としては[[東フランク王国]](及び後の[[神聖ローマ帝国]])の宗主権を認め、ボヘミアは西ヨーロッパ世界の一員となった。これによりプシェミスル朝は西からの軍事圧力を緩和し、キリスト教布教の援助を得て国内支配の強化を進めることができた。 |
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[[Category:正教会の聖人]] |
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2021年3月12日 (金) 09:31時点における版
ヴァーツラフ1世 Václav I | |
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ボヘミア公 | |
オロモウツの聖ヴァーツラフ像 | |
在位 | 921年 - 935年 |
出生 |
907年 ボヘミア プラハ |
死去 |
935年9月28日 ボヘミア スタラー・ボレスラフ(Stará Boleslav) |
埋葬 |
ボヘミア プラハ、聖ヴィート大聖堂 |
家名 | プシェミスル家 |
王朝 | プシェミスル朝 |
父親 | ヴラチスラフ1世 |
母親 | ドラミホーラ |
聖ヴァーツラフ | |
---|---|
他言語表記 | Svatý Václav |
崇敬する教派 |
ローマ・カトリック 東方正教会 |
主要聖地 | プラハ、聖ヴィート大聖堂 |
記念日 | 9月28日 |
象徴 | 王冠、短剣、ワシの旗 |
守護対象 | ボヘミア、チェコ共和国、プラハ |
ヴァーツラフ1世(Václav I, 907年 - 935年9月28日)は、ボヘミア公(在位:921年 - 935年)。ヴラチスラフ1世と妃ドラミホーラの長男。プシェミスル朝の実質的な始祖ボジヴォイ1世の孫で4代目にあたる。ボヘミアのキリスト教化を推進したが反対派に暗殺された。チェコの守護聖人聖ヴァーツラフとしても知られている。
生涯
ヴァーツラフ1世が生まれたころのボヘミアはキリスト教を受け入れ、また地域と社会の国家化が進んでいく過程にあった。ボジヴォイ1世がキリスト教徒となり、以後プシェミスル朝はプラハを中心としてキリスト教と王権を柱とする支配体制を構築していくが、まだキリスト教を受け入れず、また王権体制を拒絶する旧来からの有力者も多かった。周辺環境としては、西からはドイツ、東からはハンガリーの勢力が伸張していた。
ヴァーツラフ1世は祖母聖ルドミラによって信仰篤いキリスト教徒として育てられるが、ルドミラはヴァーツラフ1世への影響力や政治方針を巡って、父ヴラチスラフ1世の戦死後に摂政となっていた母ドラミホーラと対立し、ドラミホーラと彼女が味方とした従来の政策に反感を持つ貴族達によって殺害された。ドラミホーラもまもなく貴族の離反にあって権力を失い、924年ないし925年、成人したヴァーツラフ1世は実権を掌握した。
ヴァーツラフ1世は母を追放し(後に帰参)、聖ヴィート大聖堂の始まりとなる聖堂を建造、宣教師をドイツから招くなど、キリスト教化を進める政策を採った。外交政策としては東フランク王国(及び後の神聖ローマ帝国)の宗主権を認め、ボヘミアは西ヨーロッパ世界の一員となった。これによりプシェミスル朝は西からの軍事圧力を緩和し、キリスト教布教の援助を得て国内支配の強化を進めることができた。
しかし、この政治方針を良しとしない勢力は依然として存在し、彼らはヴァーツラフ1世の弟ボレスラフを立ててクーデターを計画した。935年、ボレスラフは自分の領地に兄を招いてそこで兄を殺害した。伝承によれば、ヴァーツラフ1世は礼拝のため教会に入ったところを弟に斬りかかられ、これを組み伏せたが、ボレスラフの家臣に取り囲まれ、教会の入り口のところで抵抗むなしく殺されたという。
民族の英雄として
ヴァーツラフ1世は自分の建てた聖ヴィート大聖堂に葬られるが、早くから聖者として人々の信仰を集めるようになった。彼を讃える詩や歌が古くから語り継がれており、そのなかでヴァーツラフ1世は真のキリスト者にして理想の騎士とされる。ヴァーツラフ1世は国と民族を守った英雄としても語られるようになった。カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)の時、ボヘミアの王冠を新しく作って聖ヴァーツラフの王冠(ヴェンツェル王冠)とし、自らをヴァーツラフの後継者と人々に印象付けようとした。
ヴァーツラフ1世の伝説は中世から伝わる。それによれば、ヴァーツラフ1世は民族の危機のときには蘇って、眠っている彼の騎士たちを呼び起こして彼らとともに外敵を打ち破って民族を守るという。19世紀、民族主義が盛んになって以降、ヴァーツラフ1世の伝説を題材とした小説や詩が大量に作られた。
近代に入ると、ヴァーツラフ1世はよりいっそう民族主義の英雄として取り上げられ、ヴァーツラフ広場に像が立てられた。この広場は以後チェコ近代史に欠かせない存在となった。チェコ全土にヴァーツラフ1世や彼にまつわる像、絵画は数知れずある。また政治家の演説、文芸の題材にも盛んに登場しており、とくに独立時や、逆に併合時にはヴァーツラフ1世の名が連呼されたといっていい。現在チェコでは命日である9月28日は祝日となっている。
脚注
参考文献
関連項目
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