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'''ニコライ・イヴァノヴィッチ・ヴァヴィロフ'''('''Nikolai Ivanovich Vavilov''', '''{{lang|ru|Николай Иванович Вавилов}}'''、[[1887年]][[11月25日]] - [[1943年]][[1月26日]])は[[ロシア帝国]]・[[ソビエト連邦]]の[[植物学者]]、[[遺伝学]]者。[[農作物]]の起原の研究で有名であるが、[[ヨシフ・スターリン]]による[[大粛清]]の嵐が吹き荒れる中、[[トロフィム・ルイセンコ]]一派の陰謀で投獄され悲劇的な最期を遂げた。
'''ニコライ・イヴァノヴィッチ・ヴァヴィロフ'''('''Nikolai Ivanovich Vavilov''', '''{{lang|ru|Николай Иванович Вавилов}}'''、[[1887年]][[11月25日]] - [[1943年]][[1月26日]])は[[ロシア帝国]]・[[ソビエト連邦]]の[[植物学者]]、[[遺伝学]]者。
[[農作物]]の起原の研究で有名であるが、[[ヨシフ・スターリン]]による[[大粛清]]の嵐が吹き荒れる中、[[トロフィム・ルイセンコ]]一派の陰謀で投獄され悲劇的な最期を遂げた。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
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しかし同じ1930年代に、[[メンデル遺伝]]を否定する[[トロフィム・ルイセンコ]]が政治的に勢力を拡大し、それに真っ向から反するヴァヴィロフの学説を排撃するようになる。[[1940年]]ついに「ブルジョア的エセ科学者」として解職・逮捕され、[[1943年]]にサラトフ監獄で[[栄養失調]]のため死去した。
しかし同じ1930年代に、[[メンデル遺伝]]を否定する[[トロフィム・ルイセンコ]]が政治的に勢力を拡大し、それに真っ向から反するヴァヴィロフの学説を排撃するようになる。[[1940年]]ついに「ブルジョア的エセ科学者」として解職・逮捕され、[[1943年]]にサラトフ監獄で[[栄養失調]]のため死去した。


==影響==
ヴァヴィロフが収集した種子コレクションのうち、[[独ソ戦]]に際して[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]が占領した地域(主に[[クリミア]]と[[ウクライナ]])の研究施設に保管されていた[[サンプル]]は、[[オーストリア]]の[[グラーツ]]郊外の[[親衛隊 (ナチス)|ナチス親衛隊]]の研究所に運び去られた。しかし、コレクションの中核となる[[レニングラード]]に保管されていたサンプルは、悲劇的な[[レニングラード包囲戦]]にもかかわらず影響を受けなかった。[[標本]]の種芋を守りながら自らは[[餓死]]した研究員の話も伝えられている。
ヴァヴィロフが収集した種子コレクションのうち、[[独ソ戦]]に際して[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]が占領した地域(主に[[クリミア]]と[[ウクライナ]])の研究施設に保管されていた[[サンプル]]は、[[オーストリア]]の[[グラーツ]]郊外の[[親衛隊 (ナチス)|ナチス親衛隊]]の研究所に運び去られた。しかし、コレクションの中核となる[[レニングラード]]に保管されていたサンプルは、悲劇的な[[レニングラード包囲戦]]にもかかわらず影響を受けなかった。[[標本]]の種芋を守りながら自らは[[餓死]]した研究員の話も伝えられている。


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==日本訪問==
==日本訪問==
ヴァヴィロフは1929年に日本を訪れている。北は[[北海道]]から、南は当時日本の植民地であった[[日本統治時代の台湾|台湾]]、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]まで行って、日本の学者との交流を行なっている <ref> 山田実「ニコライ・バビロフの生と死」(農林水産技術同友会『農林水産技術 同友会報』(東京、2009年9月)) </ref>
ヴァヴィロフは1929年に日本を訪れている。北は[[北海道]]から、南は当時日本の[[植民地]]であった[[日本統治時代の台湾|台湾]]、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]まで行って、日本の学者との交流を行なっている <ref> [[山田実]]「ニコライ・バビロフの生と死」([[農林水産技術同友会]]『農林水産技術 同友会報』(東京、2009年9月)) </ref>

札幌では[[北海道帝国大学]]の[[明峯正夫]]教授に会い、寒冷地の北海道で栽培されている稲品種の種子を求めたが、明峯教授はこれを拒否している。

京都では[[京都帝国大学]]の同じ小麦の遺伝学者でお互いに親しかった[[木原均]]教授に会い、「栽培植物の起源」と題する講演を英語で行なっている。


札幌では[[北海道帝国大学]]の明峯正夫教授に会い、寒冷地の北海道で栽培されている稲品種の種子を求めたが、明峯教授はこれを拒否している。京都では[[京都帝国大学]]の同じ小麦の遺伝学者でお互いに親しかった[[木原均]]教授に会い、「栽培植物の起源」と題する講演を英語で行なっている。九州では[[九州大学|九州帝国大学]]の[[盛永俊太郎]]教授(稲の遺伝・品種学)に会い、「稲の研究はあなたに任せる。」というようなことを述べたという。
九州では[[九州大学|九州帝国大学]]の[[盛永俊太郎]]教授(稲の遺伝・品種学)に会い、「稲の研究はあなたに任せる。」というようなことを述べたという。
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2020年10月16日 (金) 05:01時点における版

ニコライ・イヴァノヴィッチ・ヴァヴィロフ
Николай Иванович Вавилов
生誕 1887年11月25日ユリウス暦13日)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 モスクワ
死没 (1943-01-26) 1943年1月26日(55歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 サラトフ
居住 ロシア帝国の旗 ロシア帝国ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
国籍 ロシア帝国の旗 ロシア帝国ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
研究分野 植物学遺伝学
研究機関 サラトフ大学
ペトログラード応用植物学研究所
ソ連科学アカデミー遺伝学研究所
出身校 モスクワ農業大学
主な業績 農作物の起原の研究
プロジェクト:人物伝
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ニコライ・イヴァノヴィッチ・ヴァヴィロフNikolai Ivanovich Vavilov, Николай Иванович Вавилов1887年11月25日 - 1943年1月26日)は、ロシア帝国ソビエト連邦植物学者遺伝学者。

農作物の起原の研究で有名であるが、ヨシフ・スターリンによる大粛清の嵐が吹き荒れる中、トロフィム・ルイセンコ一派の陰謀で投獄され悲劇的な最期を遂げた。

生涯

モスクワの商家に生まれる。弟は物理学者となったセルゲイ・ヴァヴィロフである。1911年にモスクワ農業大学を卒業し、1912年まで応用植物学研究所、植物病理学研究所に勤務し、1913年から翌年にかけウィリアム・ベイトソン(「遺伝学」の命名者)のもとに留学して植物の病害抵抗性の研究を行った。1917年サラトフ大学農学部教授となり、1919年コムギさび病に対する抵抗性の研究、1920年には栽培植物の「平行変異説」で注目された。

1921年、ペトログラード(レニングラード、現サンクトペテルブルク)の応用植物学研究所(のちに連邦植物栽培研究所)所長となった。1926年レーニン賞を受賞。さらに1930年代にはモスクワのソビエト科学アカデミー遺伝学研究所所長、連邦地理学会会長などの要職を兼ね、ソビエトの作物改良研究の責任者となった。

彼は食糧の安定確保のためにも多様な遺伝資源を確保することが肝要であると考え、世界各地への大規模な農学植物学調査旅行を行った。この成果に基づき、遺伝的多様性が高い地域(遺伝子中心)がその作物の発祥地であると考え、栽培植物の起原についての理論を発展させた。さらに当時では世界最大の植物種子コレクションを創設した。研究の結果は、著作『栽培植物発祥地の研究』にまとめている[1]

しかし同じ1930年代に、メンデル遺伝を否定するトロフィム・ルイセンコが政治的に勢力を拡大し、それに真っ向から反するヴァヴィロフの学説を排撃するようになる。1940年ついに「ブルジョア的エセ科学者」として解職・逮捕され、1943年にサラトフ監獄で栄養失調のため死去した。

影響

ヴァヴィロフが収集した種子コレクションのうち、独ソ戦に際してドイツ軍が占領した地域(主にクリミアウクライナ)の研究施設に保管されていたサンプルは、オーストリアグラーツ郊外のナチス親衛隊の研究所に運び去られた。しかし、コレクションの中核となるレニングラードに保管されていたサンプルは、悲劇的なレニングラード包囲戦にもかかわらず影響を受けなかった。標本の種芋を守りながら自らは餓死した研究員の話も伝えられている。

ソビエト科学アカデミーは後にヴァヴィロフ賞(1965年)とヴァヴィロフメダル(1968年)を創設した。

日本訪問

ヴァヴィロフは1929年に日本を訪れている。北は北海道から、南は当時日本の植民地であった台湾朝鮮まで行って、日本の学者との交流を行なっている [2]

札幌では北海道帝国大学明峯正夫教授に会い、寒冷地の北海道で栽培されている稲品種の種子を求めたが、明峯教授はこれを拒否している。

京都では京都帝国大学の同じ小麦の遺伝学者でお互いに親しかった木原均教授に会い、「栽培植物の起源」と題する講演を英語で行なっている。

九州では九州帝国大学盛永俊太郎教授(稲の遺伝・品種学)に会い、「稲の研究はあなたに任せる。」というようなことを述べたという。

脚注

  1. ^ 佐藤洋一郎『食の人類史 ユーラシアの狩猟・採集、農耕、遊牧』中央公論新社、2016年、52頁。ISBN 978-4-12-102367-4 
  2. ^ 山田実「ニコライ・バビロフの生と死」(農林水産技術同友会『農林水産技術 同友会報』(東京、2009年9月))

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