「フルエーラ2世」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
35行目: 35行目:
アストゥリアス王[[アルフォンソ3世 (アストゥリアス王)|アルフォンソ3世]]と王妃ヒメナの三男として育った。910年に父よりアストゥリアス王国を継承した。
アストゥリアス王[[アルフォンソ3世 (アストゥリアス王)|アルフォンソ3世]]と王妃ヒメナの三男として育った。910年に父よりアストゥリアス王国を継承した。


彼は主導権を持つ兄[[オルドーニョ2世]]と良好な関係を保った。2人は[[レコンキスタ]]で協力し、オルドーニョが作成した免状に「Froila rex」と署名している。924年に兄オルドーニョが死ぬと、権力者たちはオルドーニョの息たちを無視してフルエーラをレオン王に選出した。フルエーラは貴族と臣下に人気がなく、選出は疑わしく王位の簒奪を疑われている。彼は、[[西ゴート王国|西ゴート]]王ウィティザの末裔を自称するオルムードの子、ヘブルドとアレシンドを[[暗殺]]し、さらに貴族たちを遠ざけた。このために、彼は年代記においてわずか14月間にすぎなかった治世を非難されている。歴史家ラモン・メネンデス・ピダルによれば、オルムードの縁者であった[[レオン (スペイン)|レオン]][[司教]]フルニミオを追放している。いずれにせよ、フルエーラは14月以上統治することなしに、925年初夏、[[ハンセン病]]に罹患して数日で急逝した。フルエーラの死によって継承問題が発生し、彼の弟のラミーロ、先代オルドーニョ2世の息子たち、そしてフルエーラの年若い息子たちが権利を主張した。即時の継承に幾度かの議論がなされ、最終的にフルエーラの親族はオルドーニョ2世の親族に退けられた。
彼は主導権を持つ兄[[オルドーニョ2世]]と良好な関係を保った。2人は[[レコンキスタ]]で協力し、オルドーニョが作成した免状に「Froila rex」と署名している。924年に兄オルドーニョが死ぬと、権力者たちはオルドーニョの息たちを無視してフルエーラをレオン王に選出した。フルエーラは貴族と臣下に人気がなく、王位の簒奪を疑われている。彼は、[[西ゴート王国|西ゴート]]王ウィティザの末裔を自称するオルムードの子、ヘブルドとアレシンドを暗殺し、さらに貴族たちを遠ざけた。このために、彼は年代記においてわずか14月間にすぎなかった治世を非難されている。歴史家ラモン・メネンデス・ピダルによれば、オルムードの縁者であった[[レオン (スペイン)|レオン]][[司教]]フルニミオを追放している。いずれにせよ、フルエーラは14月以上統治することなしに、925年初夏、[[ハンセン病]]に罹患して数日で急逝した。フルエーラの死によって継承問題が発生し、弟のラミーロ、先代オルドーニョ2世の息子たち、そしてフルエーラの年若い息子たちが権利を主張した。即時の継承に幾度かの議論がなされ、最終的にフルエーラの親族はオルドーニョ2世の親族に退けられた。


==子女==
==子女==
53行目: 53行目:
[[Category:レオンの君主]]
[[Category:レオンの君主]]
[[Category:カンタブリア家]]
[[Category:カンタブリア家]]
[[Category:870年代生]]
[[Category:925年没]]
[[Category:925年没]]

2019年11月3日 (日) 09:17時点における版

フルエーラ2世
Fruela II
アストゥリアス王
レオン王
12世紀に描かれたフルエーラ2世
在位 910年 - 924年(アストゥリアス王)
924年 - 925年(レオン王)

出生 875年
死去 925年7月
配偶者 ヌニロ・ヒメネス
  ウラカ
子女 アルフォンソ・フロイラス
ラミロ
オルドーニョ
家名 アストゥリアス家
王朝 ペレス朝
父親 アストゥリアス王アルフォンソ3世
母親 ヒメナ・デ・パンプローナ
テンプレートを表示

フルエーラ2世 (Fruela II de León、875年頃 - 925年7月)は、アストゥリアス王(在位:910年 - 924年)、レオン王(924年 - 925年)。フロイラ(Froila)とも。

生涯

アストゥリアス王アルフォンソ3世と王妃ヒメナの三男として育った。910年に父よりアストゥリアス王国を継承した。

彼は主導権を持つ兄オルドーニョ2世と良好な関係を保った。2人はレコンキスタで協力し、オルドーニョが作成した免状に「Froila rex」と署名している。924年に兄オルドーニョが死ぬと、権力者たちはオルドーニョの息子たちを無視してフルエーラをレオン王に選出した。フルエーラは貴族と臣下に人気がなく、王位の簒奪を疑われている。彼は、西ゴート王ウィティザの末裔を自称するオルムードの子、ヘブルドとアレシンドを暗殺し、さらに貴族たちを遠ざけた。このために、彼は年代記においてわずか14か月間にすぎなかった治世を非難されている。歴史家ラモン・メネンデス・ピダルによれば、オルムードの縁者であったレオン司教フルニミオを追放している。いずれにせよ、フルエーラは14か月以上統治することなしに、925年初夏、ハンセン病に罹患して数日で急逝した。フルエーラの死によって継承問題が発生し、弟のラミーロ、先代オルドーニョ2世の息子たち、そしてフルエーラの年若い息子たちが権利を主張した。即時の継承に幾度かの議論がなされ、最終的にフルエーラの親族はオルドーニョ2世の親族に退けられた。

子女

最初の妻ヌニロ・ヒメネスとの間に1子をもうけた。

917年以前、バヌ・カシー家が支配するトゥデーラ総督の娘ウラカと再婚した。

  • ラミロ(932年没)
  • オルドーニョ(932年没)