「エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)」の版間の差分

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== 生涯 ==
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== 家族 ==
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*フリーデリケ(1817年、夭折)
* フリーデリケ(1817年、夭折)
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== 逸話 ==
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*[[フリーメイソン|フリーメイソンリー]]だった{{sfn|湯浅慎一|1990|p=107}}。
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== 脚注 ==
== 脚注 ==

2019年4月24日 (水) 13:28時点における版

エルンスト・アウグスト
Ernst August
ハノーファー国王
在位 1837年6月20日 - 1851年11月18日
別号 カンバーランド=テヴィオットデイル公アーネスト・オーガスタス

全名 Ernst August
エルンスト・アウグスト
出生 1771年6月5日
イングランドの旗 イングランドロンドンバッキンガムハウス
死去 (1851-11-18) 1851年11月18日(80歳没)
ハノーファー王国ハノーファー
埋葬 1851年11月26日
ドイツの旗 ドイツハノーファーヘレンハウゼン王宮庭園霊廟
配偶者 フリーデリケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ
子女 ゲオルク
王朝 ハノーファー家
父親 ゲオルグ3世
母親 シャルロッテ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ
宗教 キリスト教イングランド国教会
サイン
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エルンスト・アウグスト

エルンスト・アウグストErnst August1771年6月5日 - 1851年11月18日)は、第4代ハノーファー王。イギリス王族でもあり、グレートブリテン貴族カンバーランド公(1799-1851)の爵位を持つ。英語名はアーネスト・オーガスタスErnest Augustus)。

生涯

イギリス王兼ハノーファー王ジョージ3世(ゲオルク3世)シャーロット王妃の五男としてロンドンで生まれる。

ハノーファー選帝侯ゲオルク1世がイギリス王ジョージ1世となって以来、ハノーヴァー朝の歴代のイギリス王はハノーファー選帝侯、後にハノーファー王を兼ねていた。ジョージ3世の死後、両王位は長男ジョージ4世(ゲオルク4世)と三男ウィリアム4世(ヴィルヘルム)が相次いで継承したが、2人の正嫡の子供はともに早世していた。そのため1837年にウィリアム4世が死去すると、イギリス王位はジョージ3世の四男ケント公エドワードの遺児ヴィクトリアが継承した。しかし、ハノーファーサリカ法典に基づいて女子の王位継承を認めていなかったため、エドワードの弟であるカンバーランド公アーネストが継承することとなり、イギリスとハノーファーの同君連合は解消された。

ハノーファー王国では1833年、イギリスの影響を受けた新憲法が定められ、自由主義的な政治が行なわれていた。しかし、新たにハノーファーのみの王となったエルンスト・アウグストは、即位早々に新憲法の破棄を宣言し、反動的な政策を行なった。そして、これに異議を唱えたグリム兄弟をはじめとするゲッティンゲン大学の教授7人が追放あるいは免職になるという事件(ゲッティンゲン七教授事件)が起こった。

家族

1815年メクレンブルク=シュトレーリッツ大公カール2世の娘で従妹に当たるフリーデリケと結婚した。フリーデリケにとっては3度目の結婚であった。2人の間には2子が生まれた。

  • フリーデリケ(1817年、夭折)
  • ゲオルク5世(1819年 - 1878年)

ジョージ4世ウィリアム4世エドワード・オーガスタスヴィクトリア女王の父)らは兄。

逸話

  • ジョージ3世の王子達は品行が良くないことで有名だが、エルンスト・アウグストは常軌を逸していた。些細なことで従僕を殴り殺したり、強姦未遂事件も頻繁に起こしていたという。さらには妹のソフィア近親相姦を繰り返していたと噂されたが、真偽のほどは不明。
  • フリーメイソンリーだった[1]

脚注

出典

  1. ^ 湯浅慎一 1990, p. 107.

参考文献

  • 湯浅慎一『フリーメイソンリー その思想、人物、歴史』中央公論社中公新書955〉、1990年。ISBN 978-4121009555 
エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)
ヴェルフ分家

1771年6月5日 - 1851年11月18日

爵位・家督
先代
ヴィルヘルム
ハノーファー国王
1837年–1851年
次代
ゲオルク5世
グレートブリテンの爵位
爵位創設 カンバーランド=テヴィオットデイル公爵
1799年–1851年
次代
ジョージ
アイルランドの爵位
爵位創設 アーマー伯爵
1799年–1851年
次代
ジョージ
軍職
先代
初代ドーチェスター男爵
第15(国王所有)軽竜騎兵連隊英語版 連隊長
1801年–1827年
次代
サー・コフーン・グラント英語版
先代
初代ウェリントン公爵
王立近衛騎馬連隊・ブルー英語版 連隊長
1805年–1851年
次代
ヒル男爵英語版
学職
先代
ウィリアム・ヘンリー
ダブリン大学学長英語版
1805年 - 1851年
次代
ジョン・ジョージ・デ・ラ・ポア・ベレスフォード卿英語版
非営利団体
先代
初代オニール伯爵英語版
オレンジ・インスティチュートグランド・マスター
1828年–1836年
次代
第3代ローデン伯爵英語版
名誉職
先代
初代ハロビー伯爵英語版
主席枢密顧問官英語版
1847年–1851年
次代
第3代ランズダウン侯爵