「エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)」の版間の差分
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'''エルンスト・アウグスト'''({{lang|de|Ernst August}},[[1771年]][[6月5日]] - [[1851年]][[11月18日]])は、第4代[[ハノーファー王国|ハノーファー]]王。[[イギリス]]王族でもあり、[[グレートブリテン貴族]][[カンバーランド公]](1799-1851)の爵位を持つ。英語名は'''アーネスト・オーガスタス'''({{lang|de|Ernest Augustus}})。 |
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== 生涯 == |
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== 家族 == |
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[[1815年]]に[[メクレンブルク=シュトレーリッツ|メクレンブルク=シュトレーリッツ大公]][[カール2世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|カール2世]]の娘で従妹に当たる[[フリーデリケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ|フリーデリケ]]と結婚した。フリーデリケにとっては3度目の結婚であった。2人の間には2子が生まれた。 |
[[1815年]]に[[メクレンブルク=シュトレーリッツ|メクレンブルク=シュトレーリッツ大公]][[カール2世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|カール2世]]の娘で従妹に当たる[[フリーデリケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ|フリーデリケ]]と結婚した。フリーデリケにとっては3度目の結婚であった。2人の間には2子が生まれた。 |
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*フリーデリケ(1817年、夭折) |
* フリーデリケ(1817年、夭折) |
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*[[ゲオルク5世 (ハノーファー王)|ゲオルク5世]](1819年 - 1878年) |
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[[ジョージ4世]]、[[ウィリアム4世]]、[[エドワード・オーガスタス (ケント公)|エドワード・オーガスタス]]([[ヴィクトリア女王]]の父)らは兄。 |
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== 逸話 == |
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*ジョージ3世の王子達は品行が良くないことで有名だが、エルンスト・アウグストは常軌を逸していた。些細なことで従僕を殴り殺したり、[[強姦]]未遂事件も頻繁に起こしていたという。さらには妹の[[ソフィア・オブ・ジ・ユナイテッド・キングダム|ソフィア]]と[[近親相姦]]を繰り返していたと噂されたが、真偽のほどは不明。<!--また、ソフィアはトマス・ガース将軍{{enlink|Thomas Garth (General)|a=on}}(1744 - 1829)との間に、1800年にトマスという私生児をもうけたとされている。--><!--場違い(「[[ソフィア・オブ・ジ・ユナイテッド・キングダム]]」の記事内容)--> |
* ジョージ3世の王子達は品行が良くないことで有名だが、エルンスト・アウグストは常軌を逸していた。些細なことで従僕を殴り殺したり、[[強姦]]未遂事件も頻繁に起こしていたという。さらには妹の[[ソフィア・オブ・ジ・ユナイテッド・キングダム|ソフィア]]と[[近親相姦]]を繰り返していたと噂されたが、真偽のほどは不明。<!--また、ソフィアはトマス・ガース将軍{{enlink|Thomas Garth (General)|a=on}}(1744 - 1829)との間に、1800年にトマスという私生児をもうけたとされている。--><!--場違い(「[[ソフィア・オブ・ジ・ユナイテッド・キングダム]]」の記事内容)--> |
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*[[フリーメイソン|フリーメイソンリー]]だった{{sfn|湯浅慎一|1990|p=107}}。 |
* [[フリーメイソン|フリーメイソンリー]]だった{{sfn|湯浅慎一|1990|p=107}}。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2019年4月24日 (水) 13:28時点における版
エルンスト・アウグスト Ernst August | |
---|---|
ハノーファー国王 | |
| |
在位 | 1837年6月20日 - 1851年11月18日 |
別号 | カンバーランド=テヴィオットデイル公アーネスト・オーガスタス |
全名 |
Ernst August エルンスト・アウグスト |
出生 |
1771年6月5日 イングランド、ロンドン、バッキンガムハウス |
死去 |
1851年11月18日(80歳没) ハノーファー王国、ハノーファー |
埋葬 |
1851年11月26日 ドイツ、ハノーファー、ヘレンハウゼン王宮庭園霊廟 |
配偶者 | フリーデリケ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ |
子女 | ゲオルク |
王朝 | ハノーファー家 |
父親 | ゲオルグ3世 |
母親 | シャルロッテ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ |
宗教 | キリスト教イングランド国教会 |
サイン |
エルンスト・アウグスト(Ernst August,1771年6月5日 - 1851年11月18日)は、第4代ハノーファー王。イギリス王族でもあり、グレートブリテン貴族カンバーランド公(1799-1851)の爵位を持つ。英語名はアーネスト・オーガスタス(Ernest Augustus)。
生涯
イギリス王兼ハノーファー王ジョージ3世(ゲオルク3世)とシャーロット王妃の五男としてロンドンで生まれる。
ハノーファー選帝侯ゲオルク1世がイギリス王ジョージ1世となって以来、ハノーヴァー朝の歴代のイギリス王はハノーファー選帝侯、後にハノーファー王を兼ねていた。ジョージ3世の死後、両王位は長男ジョージ4世(ゲオルク4世)と三男ウィリアム4世(ヴィルヘルム)が相次いで継承したが、2人の正嫡の子供はともに早世していた。そのため1837年にウィリアム4世が死去すると、イギリス王位はジョージ3世の四男ケント公エドワードの遺児ヴィクトリアが継承した。しかし、ハノーファーはサリカ法典に基づいて女子の王位継承を認めていなかったため、エドワードの弟であるカンバーランド公アーネストが継承することとなり、イギリスとハノーファーの同君連合は解消された。
ハノーファー王国では1833年、イギリスの影響を受けた新憲法が定められ、自由主義的な政治が行なわれていた。しかし、新たにハノーファーのみの王となったエルンスト・アウグストは、即位早々に新憲法の破棄を宣言し、反動的な政策を行なった。そして、これに異議を唱えたグリム兄弟をはじめとするゲッティンゲン大学の教授7人が追放あるいは免職になるという事件(ゲッティンゲン七教授事件)が起こった。
家族
1815年にメクレンブルク=シュトレーリッツ大公カール2世の娘で従妹に当たるフリーデリケと結婚した。フリーデリケにとっては3度目の結婚であった。2人の間には2子が生まれた。
- フリーデリケ(1817年、夭折)
- ゲオルク5世(1819年 - 1878年)
ジョージ4世、ウィリアム4世、エドワード・オーガスタス(ヴィクトリア女王の父)らは兄。
逸話
- ジョージ3世の王子達は品行が良くないことで有名だが、エルンスト・アウグストは常軌を逸していた。些細なことで従僕を殴り殺したり、強姦未遂事件も頻繁に起こしていたという。さらには妹のソフィアと近親相姦を繰り返していたと噂されたが、真偽のほどは不明。
- フリーメイソンリーだった[1]。
脚注
出典
参考文献
- 湯浅慎一『フリーメイソンリー その思想、人物、歴史』中央公論社〈中公新書955〉、1990年。ISBN 978-4121009555。
エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)
ヴェルフ家分家
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爵位・家督 | ||
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先代 ヴィルヘルム |
ハノーファー国王 1837年–1851年 |
次代 ゲオルク5世 |
グレートブリテンの爵位 | ||
爵位創設 | カンバーランド=テヴィオットデイル公爵 1799年–1851年 |
次代 ジョージ |
アイルランドの爵位 | ||
爵位創設 | アーマー伯爵 1799年–1851年 |
次代 ジョージ |
軍職 | ||
先代 初代ドーチェスター男爵 |
第15(国王所有)軽竜騎兵連隊 連隊長 1801年–1827年 |
次代 サー・コフーン・グラント |
先代 初代ウェリントン公爵 |
王立近衛騎馬連隊・ブルー 連隊長 1805年–1851年 |
次代 ヒル男爵 |
学職 | ||
先代 ウィリアム・ヘンリー |
ダブリン大学学長 1805年 - 1851年 |
次代 ジョン・ジョージ・デ・ラ・ポア・ベレスフォード卿 |
非営利団体 | ||
先代 初代オニール伯爵 |
オレンジ・インスティチュートグランド・マスター 1828年–1836年 |
次代 第3代ローデン伯爵 |
名誉職 | ||
先代 初代ハロビー伯爵 |
主席枢密顧問官 1847年–1851年 |
次代 第3代ランズダウン侯爵 |