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'''ポツダム'''({{Lang|de|Potsdam}})は[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]東北部に位置する郡独立市。[[ブランデンブルク州]]の州都である。人口は約{{formatnum:{{#expr:{{Population GER-BB| 12054000}}/10000 round 0}}}}万人。旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]領。東ドイツ時代は、ポツダムを県都とする[[ポツダム県]]が置かれていた。
'''ポツダム'''({{Lang|de|Potsdam}})は[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]東北部に位置する郡独立市。[[ブランデンブルク州]]の州都である。人口は約{{formatnum:{{#expr:{{Population GER-BB| 12054000}}/10000 round 0}}}}万人。旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]領。東ドイツ時代は、ポツダムを県都とする[[ポツダム県]]が置かれていた。
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
ポツダムは"Poztupimi"と呼ば[[スラヴ人]]の村として[[7世紀]]に設立され可能性が高い名前の意味「樫下」と思われる。[[993年]]に最初にに記述され[[1317年]]までは小さな町として記述されていた。[[1345年]]に都市特権を得た。[[1573年]]のポツダムは、人口2000人程度の小さな市場町であった。[[三十年戦争]]によって、ポツダムは人口の半分近くを失った。
[[タキトゥス]]によば、[[青銅器時代]]は[[ゲルマニア]]の1部であった。[[ゲルマン民族]]の[[民族移動時代]]後、[[スラヴ人]][[7世紀]]Hevelli部族の移住とし入って来た。[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)]]土地を[[クヴェードリンブルク]]修道院に授与した際、初めて[[993年]]Poztupimiとして記述されている<ref>August Kopish, "Die Königlichen Schlösser u. Gärten zu Potsdam", Berlin, 1854, p. 18 </ref>。[[1317年]]までは小さな町として記述されていた。[[1345年]]に都市特権を得た。[[1573年]]のポツダムは、人口2000人程度の小さな市場町であった。[[三十年戦争]]によって、ポツダムは人口の半分近くを失った。


ポツダムの命運が劇的に変わったのは、[[1660年]]に[[ブランデンブルク=プロイセン]]の[[選帝侯]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]の狩猟館として選ばれてからである。その後、[[ホーエンツォレルン家]]の宮殿が置かれるなど[[プロイセン公領|プロイセン公国]]の拠点の一つとして発展した。[[1685年]]、[[フランス]]で[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が[[ナントの勅令]]([[1598年]]に定められていた宗教寛容令)を廃止して[[ユグノー]]の迫害を図ると、プロイセンは{{仮リンク|ポツダム勅令 (プロイセン)|en|Edict of Potsdam|label=ポツダム勅令}}を発表した。これにより、ポツダムはヨーロッパ移民の中心地となった。フランスのユグノーの亡命者のほか、[[ロシア]]、[[オランダ]]、[[ボヘミア]]などから、移民がやってきた。移民をひきつけたのは、勅令によるその宗教的な自由度である。
ポツダムの命運が劇的に変わったのは、[[1660年]]に[[ブランデンブルク=プロイセン]]の[[選帝侯]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]の狩猟館として選ばれてからである。その後、[[ホーエンツォレルン家]]の宮殿が置かれるなど[[プロイセン公領|プロイセン公国]]の拠点の一つとして発展した。[[1685年]]、[[フランス]]で[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が[[ナントの勅令]]([[1598年]]に定められていた宗教寛容令)を廃止して[[ユグノー]]の迫害を図ると、プロイセンは{{仮リンク|ポツダム勅令 (プロイセン)|en|Edict of Potsdam|label=ポツダム勅令}}を発表した。これにより、ポツダムはヨーロッパ移民の中心地となった。フランスのユグノーの亡命者のほか、[[ロシア]]、[[オランダ]]、[[ボヘミア]]などから、移民がやってきた。移民をひきつけたのは、勅令によるその宗教的な自由度である。


その後、街は[[ホーエンツォレルン家|プロイセン王家]]の居住地となった。王家の壮大な建造物は、[[18世紀]]半ば、主に[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]の治世の間に建てられた。そのうちの一つが、[[庭園]]と[[ロココ様式]]の内装で有名な[[サンスーシー宮殿]]である。他には、[[:en:New Palace (Potsdam)|新宮殿]]や[[:en:Orangery Palace|オランジェリー宮殿]]がある。
その後、街は[[ホーエンツォレルン家|プロイセン王家]]の居住地となった。王家の壮大な建造物は、[[18世紀]]半ば、主に[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]の治世の間に建てられた。そのうちの一つが、[[庭園]]と[[ロココ様式]]の内装で有名な[[サンスーシー宮殿]]である。他には、[[:en:New Palace (Potsdam)|新宮殿]]や[[:en:Orangery Palace|オランジェリー宮殿]]がある。

====20世紀====
[[20世紀]]、[[ベルリン]]はプロイセンの首都となり、後に[[ドイツ帝国]]の首都となったが裁判所はポツダムに所在したままであった。
戦前には、ドイツ映画人の別荘が多く建てられた。1933年3月5日の国会開会式はこの地の{{仮リンク|衛戍教会 (ポツダム)|de|Garnisonkirche (Potsdam)|label=衛戍教会}}で開会され、この日は[[ナチス・ドイツ]]時代の始まりを象徴する日として「{{仮リンク|ポツダムの日|de|Tag von Potsdam}}」と呼ばれる。
戦前には、ドイツ映画人の別荘が多く建てられた。1933年3月5日の国会開会式はこの地の{{仮リンク|衛戍教会 (ポツダム)|de|Garnisonkirche (Potsdam)|label=衛戍教会}}で開会され、この日は[[ナチス・ドイツ]]時代の始まりを象徴する日として「{{仮リンク|ポツダムの日|de|Tag von Potsdam}}」と呼ばれる。

[[1945年]]、4月14日から15日には大規模な空襲に見舞われた({{仮リンク|ポツダム空襲|de|Luftangriff auf Potsdam}})。[[第二次世界大戦]]においてドイツが降伏した後、この都市の[[ツェツィーリエンホーフ宮殿]]で[[アメリカ合衆国|米]]、[[ソビエト連邦|ソ]]、[[イギリス|英]]の3首脳が集まり[[ポツダム会談]]が行われた。この会談でドイツをふくめたヨーロッパなどの戦後処理を決定する[[ポツダム協定]]が成立し、また会議日程中には[[大日本帝国|日本]]に対する[[降伏]]勧告・'''[[ポツダム宣言]]'''が発された。その後日本がポツダム宣言を受諾したため、日本の降伏に関する言葉にしばしばポツダムが使用される([[ポツダム命令]]、[[ポツダム少尉|ポツダム進級]])。
[[1945年]]、4月14日から15日には大規模な空襲に見舞われた({{仮リンク|ポツダム空襲|de|Luftangriff auf Potsdam}})。[[第二次世界大戦]]においてドイツが降伏した後、この都市の[[ツェツィーリエンホーフ宮殿]]で[[アメリカ合衆国|米]]、[[ソビエト連邦|ソ]]、[[イギリス|英]]の3首脳が集まり[[ポツダム会談]]が行われた。この会談でドイツをふくめたヨーロッパなどの戦後処理を決定する[[ポツダム協定]]が成立し、また会議日程中には[[大日本帝国|日本]]に対する[[降伏]]勧告・'''[[ポツダム宣言]]'''が発された。その後日本がポツダム宣言を受諾したため、日本の降伏に関する言葉にしばしばポツダムが使用される([[ポツダム命令]]、[[ポツダム少尉|ポツダム進級]])。



2016年3月5日 (土) 02:41時点における版

紋章 地図
基本情報
連邦州: ブランデンブルク州
郡: 郡独立市
緯度経度: 北緯52度23分45秒 東経13度03分41秒 / 北緯52.39583度 東経13.06139度 / 52.39583; 13.06139
標高: 海抜 35 m
面積: 187.27 km²
人口:

183,154人(2021年12月31日現在) [1]

人口密度: 978 人/km²
郵便番号: 14401–14482
市外局番: 0331
ナンバープレート: P
自治体コード: 12 0 54 000
行政庁舎の住所: Friedrich-Ebert-Str. 79/81
14469 Potsdam
ウェブサイト: potsdam.de
首長: ヤン・ヤーコプス (Jann Jakobs)
州内の位置
サン・スーシ宮殿
オランジェリー宮殿

ポツダムPotsdam)はドイツ連邦共和国東北部に位置する郡独立市。ブランデンブルク州の州都である。人口は約18万人。旧東ドイツ領。東ドイツ時代は、ポツダムを県都とするポツダム県が置かれていた。

地勢・交通

ベルリンの西南近郊に位置し、ベルリンの中心街から約26kmである。ベルリンからSバーン(近郊列車)で行くことができる。ハーフェル川が流れ、いくつかの互いにつながった湖がある。

歴史

タキトゥスによれば、青銅器時代ゲルマニアの1部であった。ゲルマン民族民族移動時代後、スラヴ人7世紀頃にHevelli部族の移住とし入って来た。オットー3世 (神聖ローマ皇帝)はその土地をクヴェードリンブルクの修道院に授与した際、初めて993年の文献にPoztupimiとして記述されている[2]1317年までは小さな町として記述されていた。1345年に都市特権を得た。1573年のポツダムは、人口2000人程度の小さな市場町であった。三十年戦争によって、ポツダムは人口の半分近くを失った。

ポツダムの命運が劇的に変わったのは、1660年ブランデンブルク=プロイセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの狩猟館として選ばれてからである。その後、ホーエンツォレルン家の宮殿が置かれるなどプロイセン公国の拠点の一つとして発展した。1685年フランスルイ14世ナントの勅令1598年に定められていた宗教寛容令)を廃止してユグノーの迫害を図ると、プロイセンはポツダム勅令英語版を発表した。これにより、ポツダムはヨーロッパ移民の中心地となった。フランスのユグノーの亡命者のほか、ロシアオランダボヘミアなどから、移民がやってきた。移民をひきつけたのは、勅令によるその宗教的な自由度である。

その後、街はプロイセン王家の居住地となった。王家の壮大な建造物は、18世紀半ば、主にフリードリヒ2世の治世の間に建てられた。そのうちの一つが、庭園ロココ様式の内装で有名なサンスーシー宮殿である。他には、新宮殿オランジェリー宮殿がある。

20世紀

20世紀ベルリンはプロイセンの首都となり、後にドイツ帝国の首都となったが裁判所はポツダムに所在したままであった。 戦前には、ドイツ映画人の別荘が多く建てられた。1933年3月5日の国会開会式はこの地の衛戍教会ドイツ語版で開会され、この日はナチス・ドイツ時代の始まりを象徴する日として「ポツダムの日」と呼ばれる。

1945年、4月14日から15日には大規模な空襲に見舞われた(ポツダム空襲)。第二次世界大戦においてドイツが降伏した後、この都市のツェツィーリエンホーフ宮殿の3首脳が集まりポツダム会談が行われた。この会談でドイツをふくめたヨーロッパなどの戦後処理を決定するポツダム協定が成立し、また会議日程中には日本に対する降伏勧告・ポツダム宣言が発された。その後日本がポツダム宣言を受諾したため、日本の降伏に関する言葉にしばしばポツダムが使用される(ポツダム命令ポツダム進級)。

1991年ポツダム大学が創立された。

政治

姉妹都市

観光

ハーフェル川に繋がる湖

1745年プロイセン王国のフリードリヒ大王が造営した夏の離宮サンスーシー宮殿や、第二次世界大戦末期の1945年にポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿などが、1990年に「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。

関連

引用

  1. ^ Bevölkerungsentwicklung und Flächen der kreisfreien Städte, Landkreise und Gemeinden im Land Brandenburg 2021 (Fortgeschriebene amtliche Einwohnerzahlen, bezogen auf den aktuellen Gebietsstand)
  2. ^ August Kopish, "Die Königlichen Schlösser u. Gärten zu Potsdam", Berlin, 1854, p. 18

外部リンク