「櫛橋光」の版間の差分
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
53行目: | 53行目: | ||
; 漫画 |
; 漫画 |
||
:* [[平田弘史]]『黒田・三十六計』([[リイド社]]) |
:* [[平田弘史]]『黒田・三十六計』([[リイド社]]) |
||
:* [[重野なおき]]『軍師 黒田官兵衛伝』([[白泉社] |
:* [[重野なおき]]『[[軍師 黒田官兵衛伝]]』([[白泉社]]) |
||
; テレビドラマ |
; テレビドラマ |
||
:* 『[[戦国疾風伝 二人の軍師 秀吉に天下を獲らせた男たち]]』([[2011年]]、テレビ東京[[新春ワイド時代劇]]、演 - [[奥貫薫]]) |
:* 『[[戦国疾風伝 二人の軍師 秀吉に天下を獲らせた男たち]]』([[2011年]]、テレビ東京[[新春ワイド時代劇]]、演 - [[奥貫薫]]) |
||
68行目: | 68行目: | ||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
* [[圓應寺]] - 福岡藩主黒田家の菩提寺。 |
* [[圓應寺]] - 福岡藩主黒田家の菩提寺。 |
||
* [[崇福寺 (福岡市) |
* [[崇福寺 (福岡市)]] - 福岡藩主黒田家の菩提寺。 |
||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
76行目: | 76行目: | ||
* [http://hakataboy.com/temple/Fukuoka/Fukuoka/EnnouJI/m.html 照福山顕光院円応寺] |
* [http://hakataboy.com/temple/Fukuoka/Fukuoka/EnnouJI/m.html 照福山顕光院円応寺] |
||
* [http://www.senjp.com/te-ru/ 黒田 光姫 (櫛橋光) (くろだ てる) ~ 黒田官兵衛の妻] |
* [http://www.senjp.com/te-ru/ 黒田 光姫 (櫛橋光) (くろだ てる) ~ 黒田官兵衛の妻] |
||
{{デフォルトソート:くしはし てる}} |
{{デフォルトソート:くしはし てる}} |
||
[[Category:黒田氏]] |
[[Category:黒田氏]] |
2014年1月5日 (日) 03:19時点における版
くしはし てる(みつ) 櫛橋 光 | |
---|---|
櫛橋光(報土寺蔵) | |
生誕 |
1553年(天文22年) 播磨国印南郡志方 |
死没 |
1627年10月5日 (寛永4年8月26日) 筑前国福岡 |
墓地 |
圓應寺(福岡) 報土寺(京都) 崇福寺(福岡) |
国籍 | 日本 |
宗教 | 仏教(浄土宗) |
配偶者 | 黒田孝高 |
子供 |
黒田長政 黒田熊之助 |
親 | 櫛橋伊定 |
補足 | |
雅号:幸圓 院号:照福院 |
櫛橋 光(くしはし てる(みつ))は、戦国時代(室町時代末期)から江戸時代初頭の女性。播磨国印南郡(現在の兵庫県加古川市志方町)の志方城主櫛橋伊定の娘。小寺政職の従姪であり養女。政職、豊臣秀吉に仕えた黒田孝高の正室。櫛橋伊則、櫛橋則政、赤松政範室の妹で、井上之房室の姉。院号は照福院(しょうふくいん)。雅号に幸圓(こうえん)がある。
経歴
1567年(永禄10年)、黒田孝高のただ一人の妻となり、翌1568年(永禄11年)に黒田長政を、1582年(天正10年)に黒田熊之助を産む。
1575年(天正3年)、織田信長の才能を高く評価していた夫・孝高は、主君の小寺政職に臣従を進言し、毛利氏攻めなどの先鋒を務める。
1578年(天正6年)3月、別所長治が殆どの周辺豪族を引き込んで信長に反旗を翻すと、実家を継いでいた志方城の兄・櫛橋伊則らもそれに追随して敵対することとなる。7月、志方城は織田信雄の兵で包囲され、出撃を数度繰り返すものの被害は大きかった。神吉城が織田信忠に落とされると、8月10日、伊定は人質を出して兵士たちの生命を保証させた後に自害する。兄たちは許されて黒田氏に仕えた。
1597年(慶長2年)、熊之助が慶長の役の中にある孝高と長政を追って、同年代の家臣(母里友信の子や黒田一成の弟ら)と共に朝鮮に渡海しようと試みたが、玄界灘で暴風雨に遭い、遭難死する。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの勃発時には、石田三成が大坂に残っている大名の妻子を人質にしようとしたが、明智珠(細川ガラシャ)が拒否して玉造の屋敷に火を放った際、孝高の家臣たち(栗山利安、母里友信、宮崎重昌)は監視の目が薄くなったのを見計らい、長政室の保科氏と共に、光を長柄の屋敷から孝高の居城の豊前国中津城まで船で脱出させた。
夫や息子は受洗してキリシタンとなったが、光は熱心な浄土宗の信徒で、1602年(慶長7年)に出家して照福山顕光院圓應寺などの寺院を建立した。黒田家では「才徳兼備(才能と容姿に徳を兼ね備えていた)」と称えられた。
孝高が太宰府天満宮に収めた『如水夢想連歌集』の中で、「長閑(のどか)に 風のかよふ 江のみず」と返歌を読んだ幸圓が、光の雅号だと考えられている。
1627年(寛永4年)、筑前国福岡において没(卒年75)。戒名は照福院殿然誉浩栄大尼公。墓は、圓應寺(福岡)、報土寺(京都)、崇福寺(福岡)にある。
光姫の読み方は「テル姫」が通説であったが、2013年(平成25年)8月、自身が建立した菩提寺である圓應寺(福岡)の蔵書から(ミツ)とルビの記された古文書が発見され、同月26日発表された[1]。
関連作品
脚注
- ^ 三木英信. “光(みつ)姫? 光(てる)姫?”. 圓應寺. 2003年11月22日閲覧。
参考文献
- 小石房子 著「妻・幸圓と黒田家の女たち」、播磨学研究所 編 編『稀代の軍師黒田官兵衛』神戸新聞総合出版センター、兵庫県神戸市中央区〈のじぎく文庫〉、2008年4月、83-108頁。ISBN 978-4-343-00457-4。
関連項目
外部リンク
- 黒田官兵衛と光
- 圓應寺公式ホームページ
- 圓應寺/ 櫛橋光 (ennouji.or.jp 圓應寺) - Facebook
- 照福山顕光院円応寺
- 黒田 光姫 (櫛橋光) (くろだ てる) ~ 黒田官兵衛の妻