「木村庄之助 (28代)」の版間の差分

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史上屈指の名行司であった[[松翁_(行司)|松翁]][[木村庄之助_(20代)|20代木村庄之助]]に入門。[[1938年]]5月に9歳で木村松尾の名で[[初土俵]]を踏み、当時は「豆行司」と呼ばれて人気を博したという。のちに松扇の[[養子]]となる。松翁の死後に[[木村庄之助 (22代)|22代庄之助]]の預かり弟子となった。
史上屈指の名行司であった[[松翁_(行司)|松翁]][[木村庄之助_(20代)|20代木村庄之助]]に入門。[[1938年]]5月に9歳で木村松尾の名で[[初土俵]]を踏み、当時は「豆行司」と呼ばれて人気を博したという。のちに松扇の[[養子]]となる。松翁の死後に[[木村庄之助 (22代)|22代庄之助]]の預かり弟子となった。


[[1947年]]式守松男時代より[[場内アナウンス]]を担当。[[1949年]]5月に師匠の22代庄之助の前名である林之助(式守林之助)を名乗る。[[1951年]]9月2代[[木村林之助]]襲名。[[1954年]]3月十両格に昇格。[[1961年]]11月に幕内格に昇格。[[1962年]]1月に養父が名乗っていた[[三太夫 (行司)|式守錦太夫]](8代)を襲名。[[1972年]]に開始された[[行司]]抜擢制度の恩恵を受け、[[1974年]]1月に先輩行司を飛び越して[[三役]]格に昇格。場内アナウンスは三役格まで担当し、三役格に昇格した1974年1月場所[[関脇]][[北の湖敏満|北の湖]]初優勝の表彰式を担当した。[[1984年]]5月には、序列上位の[[式守伊三郎 (2代)|2代式守伊三郎]]を追い抜き[[立行司]]に昇格し25代[[式守伊之助]]を襲名。昭和生まれとしては初の立行司である。伊之助を40場所務めた後[[1991年]]1月に28代[[木村庄之助]]襲名。庄之助としては18場所務め、[[1993年]]11月場所後[[停年]]。最後の取組は同場所優勝決定戦での[[横綱]][[曙太郎|曙]]-[[関脇]][[武蔵丸光洋|武蔵丸]](現[[武蔵川]])。停年後は当時の[[佐田の山晋松|出羽海理事長]]からの依頼で[[嘱託]]としてしばらくは日本相撲協会に残り、事務処理や後進の指導をしていた。伊之助在位40場所は、停年制実施後伊之助在位数としては[[式守伊之助 (24代)|24代伊之助]]の45場所に次ぐ第2位である。
[[1947年]]式守松男時代より[[場内アナウンス]]を担当。[[1949年]]5月に師匠の22代庄之助の前名である林之助(式守林之助)を名乗る。[[1951年]]9月2代[[木村林之助]]襲名。[[1954年]]3月十両格に昇格。[[1961年]]11月に幕内格に昇格。[[1962年]]1月に養父が名乗っていた[[三太夫 (行司)|式守錦太夫]](8代)を襲名。[[1972年]]に開始された[[行司]]抜擢制度の恩恵を受け、[[1974年]]1月に先輩行司を飛び越して[[三役]]格に昇格。場内アナウンスは三役格まで担当し、三役格に昇格した1974年1月場所[[関脇]][[北の湖敏満|北の湖]]初優勝の表彰式を担当した。[[1984年]]5月には、序列上位の[[式守伊三郎 (2代)|2代式守伊三郎]]を追い抜き[[立行司]]に昇格し25代[[式守伊之助]]を襲名。昭和生まれとしては初の立行司である。伊之助を40場所務めた後[[1991年]]1月に28代[[木村庄之助]]襲名。庄之助としては18場所務め、[[1993年]]11月場所後[[停年]]。最後の取組は同場所優勝決定戦での[[横綱]][[曙太郎|曙]]-[[関脇]][[武蔵丸光洋|武蔵丸]](現[[武蔵川]])。停年後は当時の[[佐田の山晋松|出羽海理事長]]からの依頼で[[嘱託]]としてしばらくは日本相撲協会に残り、事務処理や後進の指導をしていた。伊之助在位40場所は、停年制実施後伊之助在位数としては[[式守伊之助 (24代)|24代伊之助]]の45場所に次ぐ第2位であり、立行司在位数58場所は、[[木村庄之助_(27代)|27代庄之助]](97場所)、[[木村庄之助_(26代)|26代庄之助]](62場所)に次いで第3位である。


彼の庄之助時代の唯一の新横綱で裁いた[[取組]]も多かった曙を特に可愛がるとともに曙も彼を師と仰ぎ、まだ[[日本]]の様々な文化や慣習などに不慣れであった曙に相撲全般に留まらず[[日本人]]としての心構えまで丁寧に指導した。
彼の庄之助時代の唯一の新横綱で裁いた[[取組]]も多かった曙を特に可愛がるとともに曙も彼を師と仰ぎ、まだ[[日本]]の様々な文化や慣習などに不慣れであった曙に相撲全般に留まらず[[日本人]]としての心構えまで丁寧に指導した。

2013年12月31日 (火) 12:49時点における版

28代木村庄之助(にじゅうはちだい きむらしょうのすけ、1928年12月15日 - 2010年4月1日)は大相撲立行司の一人である。木村庄之助としての在位期間は1991年1月~1993年11月。出羽海部屋所属。

人物

山形県鶴岡市出身。本名は後藤悟(ごとう さとる)(旧姓・赤松-あかまつ)。

史上屈指の名行司であった松翁20代木村庄之助に入門。1938年5月に9歳で木村松尾の名で初土俵を踏み、当時は「豆行司」と呼ばれて人気を博したという。のちに松扇の養子となる。松翁の死後に22代庄之助の預かり弟子となった。

1947年式守松男時代より場内アナウンスを担当。1949年5月に師匠の22代庄之助の前名である林之助(式守林之助)を名乗る。1951年9月2代木村林之助襲名。1954年3月十両格に昇格。1961年11月に幕内格に昇格。1962年1月に養父が名乗っていた式守錦太夫(8代)を襲名。1972年に開始された行司抜擢制度の恩恵を受け、1974年1月に先輩行司を飛び越して三役格に昇格。場内アナウンスは三役格まで担当し、三役格に昇格した1974年1月場所関脇北の湖初優勝の表彰式を担当した。1984年5月には、序列上位の2代式守伊三郎を追い抜き立行司に昇格し25代式守伊之助を襲名。昭和生まれとしては初の立行司である。伊之助を40場所務めた後1991年1月に28代木村庄之助襲名。庄之助としては18場所務め、1993年11月場所後停年。最後の取組は同場所優勝決定戦での横綱関脇武蔵丸(現武蔵川)。停年後は当時の出羽海理事長からの依頼で嘱託としてしばらくは日本相撲協会に残り、事務処理や後進の指導をしていた。伊之助在位40場所は、停年制実施後伊之助在位数としては24代伊之助の45場所に次ぐ第2位であり、立行司在位数58場所は、27代庄之助(97場所)、26代庄之助(62場所)に次いで第3位である。

彼の庄之助時代の唯一の新横綱で裁いた取組も多かった曙を特に可愛がるとともに曙も彼を師と仰ぎ、まだ日本の様々な文化や慣習などに不慣れであった曙に相撲全般に留まらず日本人としての心構えまで丁寧に指導した。

掛け声も独特で「はっっけよい!のこっった!のこっったのこっったのこったー」とキビキビしており、同時期に活躍した2代伊三郎の「はいけよーい!あーのぉーったのぉーったのぉーった」という野太い掛け声と独特さの双璧を成した。

土俵上の所作の美しさはもちろん、相撲史にも非常に明るく「平成の名行司」とも呼ばれる。

2010年4月1日死去。81歳没[1]

その他

  • 控えでは様々な表情を出すことがあった。1989年3月場所14日目横綱千代の富士(現九重)-横綱大乃国(現芝田山)戦で千代の富士が大乃国を上手投げで下して左肩を脱臼した際は即座に立ち上がり千代の富士を心配したり、1989年11月場所5日目に千代の富士が関脇寺尾(現錣山)を豪快な吊り落としで土俵に叩き付けた際は隣の観客と笑いながら話していた。
  • 1993年3月場所12日目の小結若花田-横綱曙戦。取り直しの大相撲で若花田が勝ったが、取り直し前の一番では若花田の突き落としに曙が向正面土俵下へ転落。控えの27代式守伊之助は飛んできた曙を間一髪避け土俵上で裁いていた庄之助と目が合い、お互いに苦笑いするシーンが一瞬見られた。
  • その27代伊之助が1993年7月場所限りで停年となり、翌9月場所からは式守伊之助が空位となった際は、当時の三役格行司の3代木村善之輔9代式守錦太夫8代式守勘太夫横綱土俵入りの先導役を任せ、自身は花道の奥で彼らの所作を見守っていた。
  • 元々声帯が弱く、風邪を引いて声が出なくなり休場したことがある(1990年1月場所5日目~7日目までの3日間)。
  • 庄之助昇進後、結びの顔触れ言上は「番数も取り……進みましたる所」というやや変則的な言い方であったが、しばらくしてからは標準的になった。
  • 日本相撲協会を退職後は、相撲史に明るい事から相撲雑誌の座談会や対談などに数多く参加したほか、貴乃花の引退相撲ではテレビ中継のゲストとして招かれた。
  • 行司抜擢制度の恩恵を最初受けたのは1974年1月に3代正直2代伊三郎を抜いて立行司に昇格した27代庄之助であるが、彼もまたこの制度の恩恵を受け先輩行司をごぼう抜きした一人。1984年5月に2代伊三郎を抜き立行司に昇格したが、この制度の適用で彼は三役格までに10代与太夫木村筆之助7代勘太夫の3人抜き去っていたので、立行司まで含めると合計4人抜いたことになる。

履歴

出典

関連項目