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アウラングゼーブは[[アクバル]]帝以来ムガル帝国で進められてきたイスラム教徒と非イスラム教徒の融和政策と、その結果として一定程度実現された信仰の自由と宗教間の平等を破壊し、[[シャ |
アウラングゼーブは[[アクバル]]帝以来ムガル帝国で進められてきたイスラム教徒と非イスラム教徒の融和政策と、その結果として一定程度実現された信仰の自由と宗教間の平等を破壊し、[[シャリーア]]の厳格な適用によってイスラームの優位に基づく秩序を復活させた。 |
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故にイスラーム復古主義者の間ではアウラングゼーブを「護教者」とする見解が主流だが、現代的な多元主義者は、アウラングゼーブはイスラームの中から[[ムスリム]]と[[ジンミー]]という二元的関係に基づく「不平等の共存」を越えた真の多元主義が生まれる芽を摘んだという意見をもつだろう。 |
故にイスラーム復古主義者の間ではアウラングゼーブを「護教者」とする見解が主流だが、現代的な多元主義者は、アウラングゼーブはイスラームの中から[[ムスリム]]と[[ジンミー]]という二元的関係に基づく「不平等の共存」を越えた真の多元主義が生まれる芽を摘んだという意見をもつだろう。 |
2013年10月12日 (土) 02:09時点における版
アウラングゼーブ(ペルシア語: ابو مظفر محیالدین محمد اورنگزیب عالمگیر , Abū Muẓaffar Muḥī'ud-Dīn Muḥammad Aurangzēb 、1618年11月3日 - 1707年3月3日)は、ムガル帝国の第6代皇帝(在位:1658年 - 1707年)。第5代皇帝シャー・ジャハーンの三男。母はムムターズ・マハル。アーラムギール1世(Ālamgīr I)とも称される。本名ムヒー・ウッディーン・ムハンマド・アウラングゼーブ(Muḥī'ud-Dīn Muḥammad Aurangzeb)。
生涯
即位
アウラングゼーブは若年からデカンの総督としてデカンに派遣されていた。父シャー・ジャハーンが1657年病床に臥すと、長男ダーラー・シコーを後継者として指名したが、ここでムガル王朝定番の皇位継承争いがおこった。アウラングゼーブは弟のムラード・バフシュと結んでダーラーと第2皇子シャー・シュジャーを倒し、1658年までに帝位継承者としての地位を確立した。
アウラングゼーブは死刑に処したダーラーの首をシャー・ジャハーンのもとに送り、その箱を晩餐の場で開封させるなど残酷な復讐行為を行った。そして、協力者であるはずのムラードも幽閉し、のち1660年に殺した。
また、父帝をタージ・マハルの見えるアーグラ城の一室に幽閉して、ダーラーを偏愛したとして恨みの手紙を送ったり、宝石を取り上げたり、1666年に死ぬまでさまざまないやがらせをした。
宗教政策
アウラングゼーブは治世の前半、歴代皇帝が行なってきたスーフィズムのチシュティー教団による穏健な宗教政策を改め、スンナ派の教義をもととしたシャリーアに基づく保守反動的な宗教政策となり、ヒンドゥー寺院を破壊するなど、他宗教に厳しい弾圧を行った。そのため、シーア派、ヒンドゥー教徒、ラージプート、マラーター族、シク教徒などの反感を買った。
1660年代から抵抗を始めたマラーターのシヴァージーの抵抗には、アウラングゼーブは何度も苦慮させられる羽目となり、1674年にはシヴァージーがヒンドゥー教徒のマラーター王国を建国するなど、帝国はしだいに分裂の方向に向かっていった。
1679年にジズヤ(非イスラム教徒に課せられた人頭税)を復活させると、ラージプートの一部が反乱を起こした。シヴァージーも抗議の手紙を送って、今ある帝国の繁栄は過去の皇帝の努力によるものだとわからせようとした。
その内容はこのようなものだった。
「 | しかし、陛下の御世には、城塞や地方の多くが陛下のものではなくなり、残りもまもなく同じ運命をたどるでしょう。というのも、我が方には、城塞や地方の破壊に手心を加えるつもりは全くないのですから。 帝国農民は圧政に虐げられ、どの村でも収穫が減少しています。収穫が1ラク[10万ルピー]あった場所でわずか1000ルピー、1000ルピーあった場所ではわずか10ルピーというありさまです。しかも、それがひどく骨を折った結果なのです。皇帝や皇子たちの宮殿が極品に陥ったなら、高官や官吏がどのような状態に至るかは、想像に難くはありません。軍が反乱を起こし、商人がぐちをこぼし、イスラーム教徒は泣き叫び、ヒンドゥー教徒は無理難題をふっかけられて苦しみ、大多数の人は夜食べるパンにも事欠き、昼間は[怒りのあまり]自分たちの頬をたたいて真っ赤にする。そんな治世なのです。 皇帝ともあろう方が、このような惨状にある者たちに、ジズヤというさらなる辛苦を押しつけることができるものでしょうか。悪評が西から東へ、またたくまに広がって、史記に記されるでしょう。 物乞いの器を欲しがるヒンドゥスターンの皇帝は、バラモンやジャイナ教徒、ヨーガ行者、ヒンドゥー教の苦行者サンニャーシーやバイラーギー、貧民、物乞い、破産して悲惨な境遇にある人、饑饉にみまわれ、物乞いの財布を奪いとることが勇気の見せどころとなった人、そんな人々にジズヤを課して、ティムールの名と名誉を汚したと。 | 」 |
デカン遠征
1680年にシヴァージーが死に、ラージプートの反乱も制圧すると、1681年からアウラングゼーブはデカンのアウランガーバードや近郊の城郭都市アフマドナガル(旧アフマドナガル王国の都)を拠点に、デカンに大規模な外征を行った(これ以降彼はデカンと南インドで行動し、デリーに戻らなかった)。こうして、1686年にビージャプル王国、1687年にゴールコンダ王国を滅ぼし、1689年にはマラーター王国のサンバージーを殺害し、マラーターを南に追いやり、帝国最大の領土を獲得した。
ここで注目すべきなのは、このデカン遠征で戦った帝国軍の兵士や軍司令官さえもが、帝国の民族構成上ほとんどヒンドゥー教徒だったことである。ヒンドゥー教徒を弾圧していたアウラングゼーブは、実は多数派のヒンドゥー教徒の助力なしには領土を拡大することはできなかったのだ。なんとも矛盾した話である。
当然、この度重なる遠征は財政を悪化させ、重税となって人々の肩にのしかかった。
晩年と死
1690年代になって帝国の各地で重税に苦しむ農民が反乱を起こすようになり、とくにベンガル地方の反乱は大規模だった。
アウラングゼーブはそれでもデリーに戻らず、領土の拡大に執念を燃やして、南インドに逃げたマラーターと戦っていた。1700年代になるとマラーターの反撃も激しくなったが、それでも彼はマラーターと戦い続けて、ついに1705年に病気で倒れた。アウラングゼーブは回復したが、老齢による衰えは隠せずに、1706年以降はデカンのアフマドナガルにとどまった。
アウラングゼーブを不安にさせたのが、彼の息子たちの不和で、長男ムアッザム・ハーンと三男アーザム・ハーン、五男カーム・バフシュのなかが悪く、かつて自分が帝位を争ったように彼らも争って殺しあうのではないかと思うようになった。それを防ぐため、アーザム・ハーンとカーム・バフシュを死ぬ2週間前に別々の地域に送った。
アウラングゼーブ自身もかつての皇帝時代の残酷な政策やデカンへの遠征にたいして次第に後悔するようになったといわれ、死ぬ数日前にアーザム・ハーンに送った手紙には自身の統治に対して深い後悔の念が記されている。その内容はこうだった。
「 | 「そなたとそなたのそばにいる者たちが平穏であるように。(余は)老いて(略)手足から力が去った。余は一人で[この世に]来て、よそ者として[あの世]に行く。(略)余は臨機応変に統治する才を欠いていた。民の幸福を気にかけることもなかった。[余の]貴重な人生はむなしく過ぎていった。神はこの世におられるが、余は神を見ていない。(略)[帝国]軍は混乱に陥っている。(略)それでも、[神の]恵みと慈悲のおかげで、強い希望は持っている。しかし、自らの行動を振り返ることはできない([すなわち、自分の過去の行動のせいで恐れている])。(略)さらば、さらば、さらば。」 | 」 |
このように、晩年のアウラングゼーブは、後悔に満ち溢れながら、1707年3月アフマドナガルで死亡した。88歳であった。
死後のムガル帝国
アウラングゼーブの死後、彼の予想通りに息子たちが帝位をめぐって争いはじめ、彼自身の統治、多数の民族・宗教を抱えた政情や帝国の財政難も影響して、帝国領はたちまち分裂、衰退していった。
のちに混乱に乗じて帝国を見切ったデカン、アワド、ベンガルといった近隣地域が独立、マラーター同盟が強勢となり、1737年にはその宰相バージー・ラーオ1世率いる軍勢によってデリーが一時包囲された。アウラングゼーブの没後ちょうど30年目に起きたこのことは、マラーター同盟の台頭とムガール帝国の衰退をよくあらわしていた。
さらには、イランのアフシャール朝がデリーを略奪、破壊、アフガニスタンのドゥッラーニー朝も帝国領にたびたび侵入し、インドの植民地化を目指すイギリスなどの外国勢力も介入してくるなど、帝国は急激に崩壊していった。
こうして、アウラングゼーブの没後100年後の19世紀初頭には、ムガル帝国は首都とその周辺しか支配していなかった。
評価
アウラングゼーブはアクバル帝以来ムガル帝国で進められてきたイスラム教徒と非イスラム教徒の融和政策と、その結果として一定程度実現された信仰の自由と宗教間の平等を破壊し、シャリーアの厳格な適用によってイスラームの優位に基づく秩序を復活させた。
故にイスラーム復古主義者の間ではアウラングゼーブを「護教者」とする見解が主流だが、現代的な多元主義者は、アウラングゼーブはイスラームの中からムスリムとジンミーという二元的関係に基づく「不平等の共存」を越えた真の多元主義が生まれる芽を摘んだという意見をもつだろう。
パキスタンでは建国の経緯からイスラーム復古主義と世論の親和性が強く、アウラングゼーブは国民的英雄とされており、インドでアクバルが尊敬されているのと対照的である。
画像
関連項目