「兼明親王」の版間の差分
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=== 親王の歌 === |
=== 親王の歌 === |
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*七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞかなしき ([[後拾遺和歌集|後拾遺]]1154) |
*七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞかなしき(あやしき) ([[後拾遺和歌集|後拾遺]]1154) |
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:[[太田道灌]]の逸話としても知られる。 |
:[[太田道灌]]の逸話としても知られる。 |
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:この歌を題材に取った古典落語の演目に『[[道灌 (落語)|道灌]]』がある。 |
:この歌を題材に取った古典落語の演目に『[[道灌 (落語)|道灌]]』がある。 |
2013年8月23日 (金) 21:25時点における版
兼明親王 | |
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続柄 | 醍醐天皇第十六皇子 |
称号 | 前中書王、御子左大臣 |
身位 | 親王 |
出生 |
延喜14年(914年) 平安京 |
死去 |
永延元年9月26日(987年10月21日) 平安京 |
配偶者 | 伊勢守衆望の娘 |
子女 | 源伊陟、源伊行 |
父親 | 醍醐天皇 |
母親 | 藤原淑姫(藤原菅根の娘) |
役職 | 一品、中務卿 |
醍醐天皇の第十六皇子。朱雀天皇、村上天皇、源高明の異母兄弟。一時期臣籍降下して源 兼明(みなもと の かねあきら)と名乗る。博学多才で前中書王と呼ばれ甥の後中書王・具平親王と共に並び称される。藤原佐理、藤原行成と共に三蹟の一人として数える場合もある。
生涯
承平2年(932年)、源姓を賜り臣籍降下し、初叙従四位上。その後播磨権守・右近衛中将・左近衛中将等を経て、天慶7年(944年)、参議。その後も順調に累進し権中納言、中納言、従二位大納言を歴任する。天禄2年(971年)には左大臣となる。貞元2年(977年)、源昭平とともに勅により親王に復し、57年ぶりに皇籍に復帰。二品中務卿に任じられる。寛和2年(986年)、中務卿を辞し、その後は嵯峨に隠棲する。
『江談抄』『本朝文粋』に詩文を残す。勅撰和歌集入集は後拾遺和歌集の1首のみ。『古今和歌六帖』の撰者に有力視されている。
寛和2年(986年)、嵯峨野の亀山に山荘(雄倉殿)造営の際清泉が無いのを嘆き、亀山の神に祈って霊泉を得られたことが『本朝文粋』に記されている。後に亀山には後嵯峨上皇が仙洞亀山殿を造営した。
親王の別称に御子左大臣・御子左があるが、これは『醍醐天皇の皇子(御子)である左大臣』という意味。後世、親王の邸宅に藤原長家(御子左大納言)が住したため家号となり御子左家となった。
兼明が皇族に復帰させられたのは、藤原兼通・兼家兄弟の争いに関係している。兼通は弟の兼家に一時期廟堂の席次を先んじられたことを深く恨みに思い、自らが関白内大臣になった際、兼家を大納言に据えおき、従兄弟にあたる藤原頼忠を相談相手とした。そして頼忠を左大臣に引き上げるため、当時その座にあった兼明がとばっちりを受けたのである。更に円融天皇も異母兄昭平の皇族復帰を考えており、これを併せて行うことで兼明の復帰を認めたとされている。これに憤慨した兼明親王は、後に『本朝文粋』に収録された詩「莵裘賦」の中で、「君昏くして臣諛ふ」と円融天皇や兼通、頼忠を痛烈に非難している。
親王の歌
- 七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞかなしき(あやしき) (後拾遺1154)
血縁
系図
60 醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
61 朱雀天皇 | 62 村上天皇 | 兼明親王 | 源高明 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
広平親王 | 63 冷泉天皇 | 致平親王 | 為平親王 | 64 円融天皇 | 昭平親王 | 具平親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
65 花山天皇 | 67 三条天皇 | 66 一条天皇 | 源師房 〔村上源氏へ〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
敦明親王 (小一条院) | 禎子内親王 (陽明門院) | 68 後一条天皇 | 69 後朱雀天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
70 後冷泉天皇 | 71 後三条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||