「松本幸四郎 (7代目)」の版間の差分
m →経歴: 春木座(本郷座) |
|||
28行目: | 28行目: | ||
'''七代目 松本幸四郎'''(しちだいめ まつもと こうしろう、{{和暦|1870}}[[5月12日]] - {{和暦|1949}}[[1月28日]])は、[[歌舞伎]]役者。本名は'''藤間金太郎'''(ふじま きんたろう)。舞踊の[[名跡]]は三代目[[藤間勘右衛門]] → 藤間勘斎。[[屋号]]は[[高麗屋]]。[[俳名]]に錦升・琴松・紫香、[[雅号]]に白鸚がある。 |
'''七代目 松本幸四郎'''(しちだいめ まつもと こうしろう、{{和暦|1870}}[[5月12日]] - {{和暦|1949}}[[1月28日]])は、[[歌舞伎]]役者。本名は'''藤間金太郎'''(ふじま きんたろう)。舞踊の[[名跡]]は三代目[[藤間勘右衛門]] → 藤間勘斎。[[屋号]]は[[高麗屋]]。[[俳名]]に錦升・琴松・紫香、[[雅号]]に白鸚がある。 |
||
== |
== 来歴== |
||
[[1870年]]([[明治3年]])、[[三重県]][[員弁郡]]東員村(現[[東員町]])で生まれた<ref>[http://www.town.toin.lg.jp/contents_detail.php?co=cat&frmId=102&frmCd=1-5-0-0-0 東員町 ホームページ 歴史・文化、史跡紹介]</ref>。建築業を営んでいたとも<ref>中川右介著『歌舞伎座物語: 明治の名優と興行師たちの奮闘史』より</ref>武家の出ともいわれる。なお東員村は[[城下町]]ではない。 |
[[1870年]]([[明治3年]])、[[三重県]][[員弁郡]]東員村(現[[東員町]])で生まれた<ref>[http://www.town.toin.lg.jp/contents_detail.php?co=cat&frmId=102&frmCd=1-5-0-0-0 東員町 ホームページ 歴史・文化、史跡紹介]</ref>。[[建築]]業を営んでいたとも<ref>中川右介著『歌舞伎座物語: 明治の名優と興行師たちの奮闘史』より</ref>[[武家]]の出ともいわれる。なお東員村は[[城下町]]ではない。 |
||
数え3歳のとき、振付師・[[藤間勘右衛門#2代目|二代目藤間勘右衛門]]の養子となる。 |
数え3歳のとき、振付師・[[藤間勘右衛門#2代目|二代目藤間勘右衛門]]の養子となる。 |
2012年6月2日 (土) 14:59時点における版
しちだいめ まつもと こうしろう 七代目 松本幸四郎 | |
『勧進帳』の弁慶 | |
屋号 | 高麗屋 |
---|---|
定紋 | 四つ花菱 |
生年月日 | 1870年5月12日 |
没年月日 | 1949年1月28日(78歳没) |
本名 | 藤間金太郎 |
襲名歴 | 1. 市川金太郎 2. 四代目市川染五郎 3. 八代目市川高麗蔵 4. 七代目松本幸四郎 |
俳名 | 錦升・琴松・紫香・白鸚(雅号) |
別名 | 1. 三代目藤間勘右衛門(舞踊) 2. 藤間勘斎(舞踊) |
出身地 | 伊勢 四日市 |
父 | 二代目藤間勘右衛門(養父) |
子 | 十一代目市川團十郎 八代目松本幸四郎(白鸚) 二代目尾上松緑 |
当たり役 | |
『勧進帳』の弁慶 『矢の根』の曾我五郎 『菅原伝授手習鑑(車引)』の梅王 | |
七代目 松本幸四郎(しちだいめ まつもと こうしろう、1870年(明治3年)5月12日 - 1949年(昭和24年)1月28日)は、歌舞伎役者。本名は藤間金太郎(ふじま きんたろう)。舞踊の名跡は三代目藤間勘右衛門 → 藤間勘斎。屋号は高麗屋。俳名に錦升・琴松・紫香、雅号に白鸚がある。
来歴
1870年(明治3年)、三重県員弁郡東員村(現東員町)で生まれた[1]。建築業を営んでいたとも[2]武家の出ともいわれる。なお東員村は城下町ではない。
数え3歳のとき、振付師・二代目藤間勘右衛門の養子となる。
1880年(明治13年)、九代目市川團十郎の門弟となり、市川金太郎を名乗る。翌年4月、東京春木座における『近江源氏先陣館・盛綱陣屋』の小四郎で初舞台を踏む。
1889年(明治22年)3月、新富座で四代目市川染五郎を襲名。1902年(明治35年)5月には歌舞伎座で八代目市川高麗蔵を襲名。このころから團菊を継ぐ次世代の有望株として注目を集めるようになる。
1911年(明治44年)11月、帝国劇場で七代目松本幸四郎を襲名。その後は帝国劇場を拠点に活躍し、新作、翻訳劇、オペラにも挑戦、『露営の夢』の上演を試みている。
晩年になっても積極的に舞台に出演、1946年(昭和21年)には最後の『勧進帳』を勤めている。また翌年には、『仮名手本忠臣蔵』の通し狂言も勤めあげた。
1949年(昭和24年)2月の大阪歌舞伎座『助六』で三代目市川壽海が助六を勤めるにあたり、七代目は以前から出端の唄の振りの稽古をつけに行くことを約束していた。しかしそのとき体調を崩して寝込んでいたので、名代として門弟振付師の藤間良輔が出向くことになり、師匠に伺いをたてに行ったが、「聞いて分かるものじゃない、なまじっかなものを伝えては済まないから」と、わざわざ床から起き下駄をはいて、舞の要を幾度も見せた。その翌日死去。壮絶な最期だった。
芸風
恵まれた容貌、堂々たる口跡に裏打ちされた風格ある舞台で、時代物、荒事に本領を発揮した。また舞踊にも秀で、藤間流の家元として活躍した。
『勧進帳』の弁慶は、師匠譲りの絶品として生涯に約1600回演じた。
1943年(昭和18年)、幸四郎の弁慶、六代目尾上菊五郎の義経、十五代目市村羽左衛門の富樫で歌舞伎座で上演された『勧進帳』は記録映画に残されている。
岡鬼太郎が「風貌音声の堂々たる、先づ当代での随一。誰がどの件で立ち向はうと、此の金城鉄壁には矢も立たぬ」(「演芸画報」昭和7年12月号)[3]と評したほど、七代目幸四郎の弁慶は近代随一のものだった。
そのほか『大森彦七』や『矢の根』の曾我五郎、『暫』の鎌倉権五郎、『菅原伝授手習鑑・車引』の梅王、『源平魁躑躅』(扇屋熊谷)の熊谷次郎、『博多小女郎波枕』(毛剃)の毛剃、舞踊では『積恋雪関扉』(関の扉)の大伴黒主、『茨木』の渡辺綱などが当り役である。
人物
温厚な人格で、十三代目片岡仁左衛門の自伝『仁左衛門楽我記』には「どんな役でも持って来られたら私は快く出る。人は高麗屋はなんだってあんな役にまで出るのだろう? あんな役はことわればいいとごひいき筋でも言ってくださるが、出てくださいと言われることは、仲間にきらわれていない証拠ですよ。私の演し物の幕に幸四郎はださないように、と言われるようになっちゃおしまいだ。私のような者でも出て欲しいと頼まれることは、ありがたいことだと思うの」 と、その性格を表す言葉が記されている。
家族
三人の息子はそれぞれ十一代目市川團十郎、八代目松本幸四郎 (初代白鸚)、二代目尾上松緑の大立役、また女婿で立女形の四代目中村雀右衛門と、いずれも戦後歌舞伎の屋台骨を支える名優となった。
脚注・出典
- ^ 東員町 ホームページ 歴史・文化、史跡紹介
- ^ 中川右介著『歌舞伎座物語: 明治の名優と興行師たちの奮闘史』より
- ^ 松井俊諭著『歌舞伎 家の蓺』(演劇出版社)より