「セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ」の版間の差分

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'''セント・ジョセフ・カレッジ'''(Saint Joseph College)は、かつて[[神奈川県]][[横浜市]]に存在した[[インターナショナルスクール]]である。[[明治時代]]に設立され、{{jdate|2000}}に廃校となった。
'''セント・ジョセフ・カレッジ'''(Saint Joseph College)は、かつて[[神奈川県]][[横浜市]]に存在した[[インターナショナルスクール]]である。[[明治時代]]に設立され、[[2000年]]([[平成]]12年)に廃校となった。


==概要==
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===開校===
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[[江戸時代]]末期の横浜開港に伴い、山下町・山手周辺に[[外国人居留地]]が、[[関内]]にはその居留者の業務地が設けられ、これらの地に暮らす外国人子弟の教育施設として、{{jdate|1901}}に[[カトリック教会]]のマリア会によって、[[幼稚園]]から[[高等学校|高校]]までを備えた[[英語]]教育主体のインターナショナルスクールとして横浜市[[山手 (横浜市)|山手町]]に開校された。
[[江戸時代]]末期の横浜開港に伴い、山下町・山手周辺に[[外国人居留地]]が、[[関内]]にはその居留者の業務地が設けられ、これらの地に暮らす外国人子弟の教育施設として、[[1901年]]([[明治]]34年)に[[カトリック教会]]のマリア会によって、[[幼稚園]]から[[高等学校|高校]]までを備えた[[英語]]教育主体のインターナショナルスクールとして横浜市[[山手 (横浜市)|山手町]]に開校された。


===規模拡大===
===規模拡大===
その後{{jdate|1934}}には、[[ヤン・ヨセフ・スワガー]]が設計した講堂兼体育館を増築するなど規模を拡張し、その後勃発した[[第二次世界大戦]]と[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍による占領を経てさらに規模を拡大し、{{jdate|1956}}からは[[外人墓地]]脇に建つベーリックホールを寄宿舎として使用していた。
その後[[1934年]]([[昭和]]9年)には、[[ヤン・ヨセフ・スワガー]]が設計した講堂兼体育館を増築するなど規模を拡張し、その後勃発した[[第二次世界大戦]]と[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍による占領を経てさらに規模を拡大し、[[1956年]]([[昭和]]31年)からは[[外人墓地]]脇に建つベーリックホールを寄宿舎として使用していた。


その後も[[高度経済成長期]]以降の日本経済の成長に伴う[[日本の外国人|在日外国人]]や[[帰国子女]]の増大を背景に児童、生徒数を増やし、隣接する[[フェリス女学院中学校・高等学校|フェリス女学院]]や[[横浜インターナショナルスクール]]、[[サンモール・インターナショナルスクール]]などとともに、横浜を代表するインターナショナルスクールとして市民に親しまれた。
その後も[[高度経済成長期]]以降の日本経済の成長に伴う[[日本の外国人|在日外国人]]や[[帰国子女]]の増大を背景に児童、生徒数を増やし、隣接する[[フェリス女学院中学校・高等学校|フェリス女学院]]や[[横浜インターナショナルスクール]]、[[サンモール・インターナショナルスクール]]などとともに、横浜を代表するインターナショナルスクールとして市民に親しまれた。
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しかし、[[1980年代]]以降、横浜エリアに在住する外国人駐在員などが減少し、代わりに日本人や[[韓国人]]などを中心とする東洋系の生徒が増えたものの、学費がインターナショナルスクールとしては比較的安めであったにもかかわらず、生徒数が減少した。さらに[[文部省]]からの各種学校向け補助金条件が厳しくなったことなどにより先行きが危ぶまれた。
しかし、[[1980年代]]以降、横浜エリアに在住する外国人駐在員などが減少し、代わりに日本人や[[韓国人]]などを中心とする東洋系の生徒が増えたものの、学費がインターナショナルスクールとしては比較的安めであったにもかかわらず、生徒数が減少した。さらに[[文部省]]からの各種学校向け補助金条件が厳しくなったことなどにより先行きが危ぶまれた。


また、[[バブル景気]]期のマリア会による[[暁星学園]]の[[イギリス]]校進出投資([[英国暁星国際学園]])に対する失策などによる、[[東京カテドラル聖マリア大聖堂|東京カテドラル教会]]の投資資金の回収が、同校の廃校とそれに伴う土地売却によって処理されることになった。これを受けて、林会長を含む多くの卒業生一同、在校生とその保護者から猛烈な反対運動が展開されたにもかかわらず、{{jdate|1995}}に廃校することが決定され、全ての在校生が卒業した{{jdate|2000}}6月をもって廃校となった。
また、[[バブル景気]]期のマリア会による[[暁星学園]]の[[イギリス]]校進出投資([[英国暁星国際学園]])に対する失策などによる、[[東京カテドラル聖マリア大聖堂|東京カテドラル教会]]の投資資金の回収が、同校の廃校とそれに伴う土地売却によって処理されることになった。これを受けて、林会長を含む多くの卒業生一同、在校生とその保護者から猛烈な反対運動が展開されたにもかかわらず、[[1995年]]([[平成]]7年)に廃校することが決定され、全ての在校生が卒業した[[2000年]]([[平成]]12年)6月をもって廃校となった。


なお、バブル景気期のマリア会の拡大投資の首謀者で、資産売却によってこの責任を取ろうとした管区長は、かつてセントジョセフと暁星学園の両校でも教鞭を執ったこともある[[修道士]]であったが、その後札幌光星の神父(自身も自害)によって刺殺された。
なお、バブル景気期のマリア会の拡大投資の首謀者で、資産売却によってこの責任を取ろうとした管区長は、かつてセントジョセフと暁星学園の両校でも教鞭を執ったこともある[[修道士]]であったが、その後札幌光星の神父(自身も自害)によって刺殺された。


===その後===
===その後===
廃校翌年の{{jdate|2001}}にベーリックホールを除く全ての校舎は解体され、跡地は大手[[不動産]]会社が購入し大規模[[マンション]]を建設することになったが、周辺住民らはこれに反発し「横浜山手の歴史と文化を守る会」を結成し、反対運動を展開した。
廃校翌年の[[2001年]]([[平成]]13年)にベーリックホールを除く全ての校舎は解体され、跡地は大手[[不動産]]会社が購入し大規模[[マンション]]を建設することになったが、周辺住民らはこれに反発し「横浜山手の歴史と文化を守る会」を結成し、反対運動を展開した。


その後市民や観光客から3万人以上の反対署名を得て市に提出したものの、その後申し出は却下され、現在跡地は大手不動産会社や[[住友商事]]などが共同開発、分譲した大規模マンション「コルティーレ山手町」となっている。
その後市民や観光客から3万人以上の反対署名を得て市に提出したものの、その後申し出は却下され、現在跡地は大手不動産会社や[[住友商事]]などが共同開発、分譲した大規模マンション「コルティーレ山手町」となっている。
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==関連項目==
==関連項目==
*『[[セーラー服通り]]』 - {{jdate|1986}}に[[TBSテレビ|TBS]]で放送されたドラマ。ロケに冬休み中の校舎が使用された
*『[[セーラー服通り]]』 - [[1986年]]([[昭和]]61年)に[[TBSテレビ|TBS]]で放送されたドラマ。ロケに冬休み中の校舎が使用された
*[[暁星中学校・高等学校]](姉妹校)
*[[暁星中学校・高等学校]](姉妹校)
*[[札幌光星中学校・高等学校]](姉妹校)
*[[札幌光星中学校・高等学校]](姉妹校)

2012年2月7日 (火) 10:30時点における版

セント・ジョセフ・カレッジ(Saint Joseph College)は、かつて神奈川県横浜市に存在したインターナショナルスクールである。明治時代に設立され、2000年平成12年)に廃校となった。

概要

開校

江戸時代末期の横浜開港に伴い、山下町・山手周辺に外国人居留地が、関内にはその居留者の業務地が設けられ、これらの地に暮らす外国人子弟の教育施設として、1901年明治34年)にカトリック教会のマリア会によって、幼稚園から高校までを備えた英語教育主体のインターナショナルスクールとして横浜市山手町に開校された。

規模拡大

その後1934年昭和9年)には、ヤン・ヨセフ・スワガーが設計した講堂兼体育館を増築するなど規模を拡張し、その後勃発した第二次世界大戦イギリスアメリカなどの連合国軍による占領を経てさらに規模を拡大し、1956年昭和31年)からは外人墓地脇に建つベーリックホールを寄宿舎として使用していた。

その後も高度経済成長期以降の日本経済の成長に伴う在日外国人帰国子女の増大を背景に児童、生徒数を増やし、隣接するフェリス女学院横浜インターナショナルスクールサンモール・インターナショナルスクールなどとともに、横浜を代表するインターナショナルスクールとして市民に親しまれた。

廃校

しかし、1980年代以降、横浜エリアに在住する外国人駐在員などが減少し、代わりに日本人や韓国人などを中心とする東洋系の生徒が増えたものの、学費がインターナショナルスクールとしては比較的安めであったにもかかわらず、生徒数が減少した。さらに文部省からの各種学校向け補助金条件が厳しくなったことなどにより先行きが危ぶまれた。

また、バブル景気期のマリア会による暁星学園イギリス校進出投資(英国暁星国際学園)に対する失策などによる、東京カテドラル教会の投資資金の回収が、同校の廃校とそれに伴う土地売却によって処理されることになった。これを受けて、林会長を含む多くの卒業生一同、在校生とその保護者から猛烈な反対運動が展開されたにもかかわらず、1995年平成7年)に廃校することが決定され、全ての在校生が卒業した2000年平成12年)6月をもって廃校となった。

なお、バブル景気期のマリア会の拡大投資の首謀者で、資産売却によってこの責任を取ろうとした管区長は、かつてセントジョセフと暁星学園の両校でも教鞭を執ったこともある修道士であったが、その後札幌光星の神父(自身も自害)によって刺殺された。

その後

廃校翌年の2001年平成13年)にベーリックホールを除く全ての校舎は解体され、跡地は大手不動産会社が購入し大規模マンションを建設することになったが、周辺住民らはこれに反発し「横浜山手の歴史と文化を守る会」を結成し、反対運動を展開した。

その後市民や観光客から3万人以上の反対署名を得て市に提出したものの、その後申し出は却下され、現在跡地は大手不動産会社や住友商事などが共同開発、分譲した大規模マンション「コルティーレ山手町」となっている。

著名な出身者

関連項目

外部リンク