「マンハッタン計画」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m r2.6.4) (ロボットによる 変更: hu:Manhattan-terv
m r2.6.4) (ロボットによる 変更: hu:Manhattan terv
135行目: 135行目:
[[hi:मैनहट्टन परियोजना]]
[[hi:मैनहट्टन परियोजना]]
[[hr:Projekt Manhattan]]
[[hr:Projekt Manhattan]]
[[hu:Manhattan-terv]]
[[hu:Manhattan terv]]
[[id:Proyek Manhattan]]
[[id:Proyek Manhattan]]
[[is:Manhattan-verkefnið]]
[[is:Manhattan-verkefnið]]

2011年8月15日 (月) 04:27時点における版

トリニティ実験の写真

マンハッタン計画(マンハッタンけいかく、: Manhattan Project)とは、第二次世界大戦中、枢軸国の原爆開発に焦ったアメリカ原子爆弾開発・製造のために、亡命ユダヤ人を中心として科学者、技術者を総動員した国家計画である。計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施した。さらに、広島に同年8月6日長崎8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなった。

科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマーがあたった。大規模な計画を効率的に運営するために管理工学が使用された。

なお、計画の名は、当初の本部がニューヨーク・マンハッタンに置かれていたため、一般に軍が工区名をつける際のやり方に倣って「マンハッタン・プロジェクト」とした。最初は「代用物質開発研究所(Laboratory for the Development of Substitute Materials)」と命名されたが、これを知った(後にプロジェクトを牽引することになる)レズリー・グローヴスが、その名称は好奇心を掻き立てるだけであるとして新たに提案したのが採用されたものである[1]

進言

ナチス・ドイツが先に核兵器を保有することを恐れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、1939年、同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名を借りてルーズベルト大統領に信書を送ったことがアメリカ政府の核開発への動きをうながす最初のものとなった。この「進言」では核連鎖反応が軍事目的のために使用される可能性があることが述べられ、核によって被害を受ける可能性も示唆された。なお、以降アインシュタインはマンハッタン計画には関与しておらず、また、政府からその政治姿勢を警戒されて実際に計画がスタートした事実さえ知らされていなかった。

着手

グローヴスとオッペンハイマー

当初はルーズベルトは関心を示さずに検討委員会を設ける程度であったが、1941年にイギリスからユダヤ系科学者オットー・フリッシュルドルフ・パイエルスの記した核エネルギーの兵器応用のアイディアを伝えられ、核兵器実現の可能性が高まると、1942年6月、ルーズベルトは国家プロジェクトとしての研究着手を決意する。プロジェクトの実施にあたっては「陸軍マンハッタン工兵管区」と名称が付けられた組織が行うこととなった。責任者はレズリー・リチャード・グローヴス准将が1942年9月に着任した。

計画

計画に参加する科学者達のリーダーに選ばれたのは物理学者のロバート・オッペンハイマーである。オッペンハイマーの提案で研究所はニューメキシコ州ロスアラモス(サイト Y、後のロスアラモス国立研究所)に置かれることが1942年11月に決定した。彼を研究所長に、ニールス・ボーアエンリコ・フェルミジョン・フォン・ノイマン爆縮レンズの計算担当)、オットー・フリッシュエミリオ・セグレハンス・ベーテエドワード・テラースタニスワフ・ウラムなど著名な科学者のほか、リチャード・ファインマンなど若手の研究者やハーバード大学カリフォルニア大学など名門校の学生などが集められた。当時はコンピュータが実用化されていなかったために、計算だけを任務とする数学に優秀な高校生も集められた。またデュポンゼネラル・エレクトリックウェスティングハウス・エレクトリックなど民間の大企業も参画している。

ロスアラモスの他にもシカゴ大学冶金研究所カリフォルニア大学バークレー校など多くの施設がマンハッタン計画に参加し、アーサー・コンプトンレオ・シラードアーネスト・ローレンスジョン・ホイーラーグレン・シーボーグなどが協力した。ウラニウムの分離施設と計画の司令部はテネシー州オークリッジ(サイト X、後のオークリッジ国立研究所)に置かれ、プルトニウムの抽出はワシントン州リッチランド北西郊外(サイト W、後のハンフォード・サイトで米国で最大級の核廃棄物問題の箇所[2])で行われた。米国以外ではカナダモントリオール大学が計画に参加している。この計画に対しては多額の資金(当時の額面で19億ドル)が投入された。

開発

マンハッタン計画の開発は秘密主義で行われ、情報の隔離が徹底された。別の部署の研究内容を全く伝えず、個々の科学者に与える情報は個別の担当分野のみに限定させ、全体を知るのは上層部のみというグローヴスの方針には自由な研究を尊ぶ科学者からの反発も強かった。ウラン濃縮には電磁濃縮法が使用された。当時、電磁石に用いる銅の使用が制限されていたので国立銀行から銀を借りて使用した。銀線の方が電気抵抗が少なく多少たりとも消費電力削減に貢献した。

原爆投下

1945年3月、連合国によりドイツが原爆を開発していない確証が得られると、ジェイムス・フランクやシラードらは、フランクレポートの提出など、対日戦での無思慮な原爆使用に反対する活動を行った。

しかし、アメリカは世界で初めての原子爆弾を開発し、7月16日トリニティ実験を行い爆発に成功した。開発された原子爆弾は、8月6日に日本の広島に投下され(リトルボーイ)、さらに8月9日長崎に投下された(ファットマン)。

開発状況を描いた書籍・映画作品

書籍

映画

  • シャドー・メーカーズ (Fat Man and Little Boy、アメリカ、1989年) - ポール・ニューマン出演の創作を交えた劇場公開用映画。ベルリン国際映画祭ノミネート。
  • デイ・ワン (Day One、アメリカ、1989年) - 史実に忠実に作られたテレビ映画。エミー賞(ドラマ部門最優秀作品賞)受賞。
  • デイ・アフター・トリニティー (The Day after Trinity、アメリカ、1980年) - マンハッタン計画とロバート・オッペンハイマーの半生を綴ったドキュメンターリー映画。1980年アカデミー賞、ベスト・ドキュメンタリー映画部門に入選。

TV番組

スラングとしての「マンハッタン計画」

「規模は壮大だがろくな結果にならないもの」のことの例えとして、しばしば使われる。2000年代ではサブプライムローンへの異常な投機熱がこう呼ばれた。

脚注

  1. ^ Norris, Robert S (2002). Racing for the Bomb: General Leslie R. Groves, the Manhattan Project's Indispensable Man. Steerforth. pp. p.170. ISBN 978-1-58642-039-0 
  2. ^ ワシントン州ハンフォード (アメリカ合衆国環境保護庁) (英語)

関連項目

外部リンク

Template:Link GA Template:Link GA Template:Link GA