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[[明治維新]]を迎えると政府は、中央集権をおし進めるため、[[1871年]](明治4年)[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]に[[廃藩置県]]を断行、旧来の封建支配の一掃を図った。その後、全国的な府県の再編が行われ、同年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]、下野国北部に'''[[宇都宮県]]'''が、また下野国南部に上野国南東部を加えて'''栃木県'''が設置され、日光県は廃止された。なお、 |
[[明治維新]]を迎えると政府は、中央集権をおし進めるため、[[1871年]](明治4年)[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]に[[廃藩置県]]を断行、旧来の封建支配の一掃を図った。その後、全国的な府県の再編が行われ、同年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]、下野国北部に'''[[宇都宮県]]'''が、また下野国南部に上野国南東部を加えて'''栃木県'''が設置され、日光県は廃止された。なお、日光県知事であった鍋島は栃木県県令を引き続き務めている。 |
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== 沿革 == |
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2011年7月4日 (月) 14:41時点における版
日光県(にっこうけん)は、1869年(明治2年)に下野国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は現在の栃木県に広く分布している。本項では前身の真岡知県事(もおかちけんじ)についても記す。
概要
戊辰戦争では宇都宮など関東内における戦役の舞台の1つとなり(宇都宮城の戦い)、1868年(慶応4年)6月、鍋島道太郎(佐賀藩士)が真岡知県事に任命され、8月には日光領が収公された。9月に入って鍋島知県事は旧日光奉行所に入り、1869年(明治2年)2月には日光県と改称し、日光に県庁を置いた。また、1870年(明治3年)には移封となった高徳藩、廃藩となった喜連川藩の領地も編入した。
明治維新を迎えると政府は、中央集権をおし進めるため、1871年(明治4年)7月14日に廃藩置県を断行、旧来の封建支配の一掃を図った。その後、全国的な府県の再編が行われ、同年11月14日、下野国北部に宇都宮県が、また下野国南部に上野国南東部を加えて栃木県が設置され、日光県は廃止された。なお、日光県知事であった鍋島は栃木県県令を引き続き務めている。
沿革
管轄範囲
都賀郡、安蘇郡、足利郡は栃木県、那須郡、塩谷郡、芳賀郡、河内郡は宇都宮県に編入された。
歴代知事
真岡知県事
日光県
- 1869年(明治2年)2月15日 - 1869年(明治2年)7月20日 : 知事 鍋島貞幹(前真岡知県事)
- 1869年(明治2年)7月20日 - 1871年(明治4年)5月17日 : 権知事・鍋島貞幹(前日光県知事)
- 1871年(明治4年)5月17日 - 1871年(明治4年)11月13日 : 知事・鍋島貞幹(前日光県権知事)
関連項目
先代 真岡代官所 (下野国内の幕府領・旗本領) 日光奉行所(日光領) 高徳藩 喜連川藩 |
行政区の変遷 1868年 - 1871年 (真岡知県事→日光県) |
次代 栃木県 |