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'''円明'''(えんみょう、生年不詳- [[仁寿]]元年([[851年]]))は、[[平安時代]]前期の[[真言宗]]の[[僧]]。[[空海]]の[[空海#十大弟子|十大弟子]]の一人。出自不詳。
'''円明'''(えんみょう、生年不詳- [[仁寿]]元年([[851年]]))は、[[平安時代]]前期の[[真言宗]]の[[僧]]。[[空海]]の[[空海#十大弟子|十大弟子]]の一人。出自不詳。


はじめ[[東大寺]]で[[三論宗]]を学び、後に空海に師事して密教を学び灌頂を受けた。[[承和]]3年(836年)5月、東大寺真言院に定額僧21人が置かれるにあたり、[[実恵]]とともに真言院の管理者に選任されている。同じころ実恵が入唐請益僧[[真済]]に託した唐青竜寺宛の書状<ref name="shojou">『弘法大師行化記』(続群書類従8下)所収。</ref>(遭難のため届けられず)にも、「東大の円明」とあり、東大寺に住していたことがわかる。承和5年(838年)から5年間、東大寺別当を務めた。[[嘉祥]]3年(850年)7月、権律師に任ぜられ、12月に律師となる。仁寿元年(851年)入滅<ref name="nyuumetu">国史に死亡記事がないため、『僧綱補任』による。入滅の月日、享年とも記載なし。</ref>。
はじめ[[東大寺]]で[[三論宗]]を学び、後に空海に師事して密教を学び灌頂を受けた。[[承和 (日本)|承和]]3年(836年)5月、東大寺真言院に定額僧21人が置かれるにあたり、[[実恵]]とともに真言院の管理者に選任されている。同じころ実恵が入唐請益僧[[真済]]に託した唐青竜寺宛の書状<ref name="shojou">『弘法大師行化記』(続群書類従8下)所収。</ref>(遭難のため届けられず)にも、「東大の円明」とあり、東大寺に住していたことがわかる。承和5年(838年)から5年間、東大寺別当を務めた。[[嘉祥]]3年(850年)7月、権律師に任ぜられ、12月に律師となる。仁寿元年(851年)入滅<ref name="nyuumetu">国史に死亡記事がないため、『僧綱補任』による。入滅の月日、享年とも記載なし。</ref>。


道猷『弘法大師弟子譜』は、このほかに天長元年(824年)9月に最初の神護寺定額僧21人の一員として名簿に名を連ねているとしている。しかし近年、その名簿「廿一口交名」を神護寺定額僧のものとすることや、名簿の信憑性に否定的な見解が出されている<ref name="jingoji">武内孝善「泰範の生年をめぐって―承和四年四月五日付僧綱牒の信憑性」(『高野山大学論叢』37、2002年)
道猷『弘法大師弟子譜』は、このほかに天長元年(824年)9月に最初の神護寺定額僧21人の一員として名簿に名を連ねているとしている。しかし近年、その名簿「廿一口交名」を神護寺定額僧のものとすることや、名簿の信憑性に否定的な見解が出されている<ref name="jingoji">武内孝善「泰範の生年をめぐって―承和四年四月五日付僧綱牒の信憑性」(『高野山大学論叢』37、2002年)

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円明(えんみょう、生年不詳- 仁寿元年(851年))は、平安時代前期の真言宗空海十大弟子の一人。出自不詳。

はじめ東大寺三論宗を学び、後に空海に師事して密教を学び灌頂を受けた。承和3年(836年)5月、東大寺真言院に定額僧21人が置かれるにあたり、実恵とともに真言院の管理者に選任されている。同じころ実恵が入唐請益僧真済に託した唐青竜寺宛の書状[1](遭難のため届けられず)にも、「東大の円明」とあり、東大寺に住していたことがわかる。承和5年(838年)から5年間、東大寺別当を務めた。嘉祥3年(850年)7月、権律師に任ぜられ、12月に律師となる。仁寿元年(851年)入滅[2]

道猷『弘法大師弟子譜』は、このほかに天長元年(824年)9月に最初の神護寺定額僧21人の一員として名簿に名を連ねているとしている。しかし近年、その名簿「廿一口交名」を神護寺定額僧のものとすることや、名簿の信憑性に否定的な見解が出されている[3]

補注

  1. ^ 『弘法大師行化記』(続群書類従8下)所収。
  2. ^ 国史に死亡記事がないため、『僧綱補任』による。入滅の月日、享年とも記載なし。
  3. ^ 武内孝善「泰範の生年をめぐって―承和四年四月五日付僧綱牒の信憑性」(『高野山大学論叢』37、2002年)