「エンリケ4世 (カスティーリャ王)」の版間の差分

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エンリケは15歳のとき、[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[フアン2世 (アラゴン王)|フアン2世]]と[[ナバラ王国|ナバラ]]女王[[ブランカ1世 (ナバラ女王)|ブランカ1世]]の王女で母方の従姉の[[ブランカ2世|ブランカ]]([[1424年]] - [[1464年]])と結婚した。しかしエンリケは新婚初夜はおろか、その後も全く彼女に対して性交渉を求めなかった。13年後にエンリケが離婚を求めたとき、公式の検査でブランカの処女が確認された。聖職者たちは[[セゴビア]]の[[売春婦]]に対してエンリケが性的不能ではないことを確認し、[[教皇|ローマ教皇]]も結婚が何らかの「魔法」によって妨げられたとして離婚を承認した。ブランカは実家に送られて収監され、のちに[[毒殺]]された。
エンリケは15歳のとき、[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[フアン2世 (アラゴン王)|フアン2世]]と[[ナバラ王国|ナバラ]]女王[[ブランカ1世 (ナバラ女王)|ブランカ1世]]の王女で母方の従姉の[[ブランカ2世|ブランカ]]([[1424年]] - [[1464年]])と結婚した。しかしエンリケは新婚初夜はおろか、その後も全く彼女に対して[[性交渉]]を求めなかった。13年後にエンリケが離婚を求めたとき、公式の検査でブランカの処女が確認された。聖職者たちは[[セゴビア]]の[[売春婦]]に対してエンリケが性的不能ではないことを確認し、[[教皇|ローマ教皇]]も結婚が何らかの「魔法」によって妨げられたとして離婚を承認した。ブランカは実家に送られて収監され、のちに[[毒殺]]された。


[[1454年]]、エンリケは父王フアン2世の死去を受けて王位に即いた。
[[1454年]]、エンリケは父王フアン2世の死去を受けて王位に即いた。

2010年12月4日 (土) 17:47時点における版

エンリケ4世

エンリケ4世スペイン語Enrique IV, 1425年1月25日 - 1474年12月11日)は、カスティーリャ王国トラスタマラ朝)の国王(在位:1454年 - 1474年)。フアン2世と最初の王妃マリアの子。2度の結婚にもかかわらずどちらの妻とも性交しなかったため、エンリケ不能王Enrique el impotente)とあだ名される。貴族の台頭に対して抗することができず、国内の分権傾向が強まった。

生涯

エンリケは15歳のとき、アラゴンフアン2世ナバラ女王ブランカ1世の王女で母方の従姉のブランカ1424年 - 1464年)と結婚した。しかしエンリケは新婚初夜はおろか、その後も全く彼女に対して性交渉を求めなかった。13年後にエンリケが離婚を求めたとき、公式の検査でブランカの処女が確認された。聖職者たちはセゴビア売春婦に対してエンリケが性的不能ではないことを確認し、ローマ教皇も結婚が何らかの「魔法」によって妨げられたとして離婚を承認した。ブランカは実家に送られて収監され、のちに毒殺された。

1454年、エンリケは父王フアン2世の死去を受けて王位に即いた。

1455年ポルトガルドゥアルテ1世と王妃レオノールの王女で自身にも先妻にも従妹にあたるフアナと結婚した。エンリケ4世は彼女に対しても手を出さなかったため、子供をもうけるため人工授精が行なわれて王女フアナが生まれた。しかし王妃フアナは愛人ベルトラン・デ・ラ・クエバ(Beltrán de la Cueva)を連れ込んでいたため、王女はフアナ・ラ・ベルトラネーハと呼ばれるようになった。王女フアナの王位継承者の資格についての疑問、王の柔弱、王妃の不義、貴族たちの台頭は、エンリケ4世の死後の紛争の火種となった。

1474年、エンリケ4世はマドリードで死去した。それを受け、アラゴン王太子妃となっていたエンリケ4世の異母妹イサベルとポルトガル王妃となったフアナはともに即位を宣言した。イサベル支持派とアラゴンの連合軍はフアナ支持派とポルトガルの連合軍を破り、イサベルが王位を嗣いだ。

関連項目

対立王アルフォンソ12世 ( アルフォンソ・デ・カスティーリャ ) (在位:1465年 - 1468年)。 



先代
フアン2世
アラゴン王(対立王)
バルセロナ伯
1462年 - 1463年
次代
ペドロ5世
先代
フアン2世
アストゥリアス公
1425年 - 1454年
次代
フアナ・ラ・ベルトラネーハ