アルフォンソ・デ・カスティーリャ
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アルフォンソ・デ・カスティーリャ Alfonso de Castilla | |
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アストゥリアス公 | |
ブルゴスのミラフローレス修道院にある、アルフォンソ王子の墓碑 | |
在位 | 1464年 - 1468年 |
出生 |
1453年11月17日 カスティーリャ王国、トルデシリャス |
死去 |
1468年7月5日(14歳没) カスティーリャ王国、カルデニョサ |
埋葬 | カスティーリャ王国、ブルゴス、カルトゥジオ会ミラフローレス修道院 |
家名 | トラスタマラ家 |
父親 | カスティーリャ王フアン2世 |
母親 | イサベル・デ・ポルトゥガル |
アルフォンソ・デ・カスティーリャ(Alfonso de Castilla)またはアルフォンソ・デ・トラスタマラ・イ・アビス(Alfonso de Trastámara y Avís, 1453年11月17日 - 1468年7月5日)は、カスティーリャ王フアン2世と2番目の王妃イサベル・デ・ポルトゥガルの息子。エンリケ4世の異母弟、イサベル1世の同母弟である。
概要
[編集]アルフォンソ誕生の翌1454年に父フアン2世が死去すると、王位を継承した異母兄エンリケ4世はアルフォンソを母、姉とともに追放した。しかしエンリケ4世には男子がなく、唯一生まれた娘フアナにも出生を巡って疑惑があった。そのため、カスティーリャ貴族の一部はエンリケ4世を見限り、アルフォンソを次の王位につけようとした。
1464年、アルフォンソにアストゥリアス公の称号が贈られた。カスティーリャ王位継承者の称号であり、すでにフアナに授けられていたが、エンリケ4世もこれを認めた。その後、アルフォンソは「カスティーリャ王アルフォンソ12世」として対立王に推戴され、内乱が起こったが、1468年にアルフォンソは14歳で病死した。
アルフォンソの死後、代わって姉イサベルを推戴する動きがあったが、イサベルはエンリケ4世の生前には王位の請求を拒否した。1474年にエンリケ4世が死去すると、イサベルは貴族の支持を得て王位につき、フアナはポルトガルへ逃れた。
なお、「アルフォンソ12世」は正式には、19世紀にブルボン家のスペイン王が名乗っている。
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